愛されずとも花は咲く 02
「五条君、君ってば本当に愉快な事になってるね」
真っ直ぐ向かった医務室にいた家入硝子は早々に「専門外だ」と匙を投げ、事情に通じている病院へ電話を掛けた。家入は花を吐く病など聞いた事もない。そんな症例を扱った論文を見た事も無い。例えこれが治せるものだとして、どこに反転術式を使えばいいのかもさっぱりだった。そもそも、彼女の前に現れた五条悟は診断の最中、一度も花を吐いていない。五条が吐いたという花びらを見せられたが、ただの生花にしか見えない。花の種類もわからない。花の種類が何であるかが五条の言う不可思議な病にどう関係があるのか知らないが、五条は気になるらしく花の種類を聞いてきた。自分で辞典でも引け、と言ったが五条が自分で真面目に調べるとは到底思えない。いつもカフェだとかレストランだとかを調べているそのスマホでちょっと検索すればいいだけなのだが、その事を指摘するつもりもない。どうせ言っても『あの子』に関係無い事はしたくないとか屁理屈をこねられて面倒なことになるだけだろう。
「大体さぁ、今日の仕事は時間かかんなかったしこっちに戻ってきたのもこんなに早かったんだよ?」
部屋に掛けられているシンプルな白いアナログ時計はまもなく十七時を指すところだった。普段五条が請け負う任務を考えると、確かに日帰りで明るい時間に帰ってくるのは中々珍しい。任務自体は早々に終わるのだが、如何せん移動に時間がかかる。国内に限らず海外にまで飛び回る五条は、その様に見えないが非常に忙しい。片手で足りるだけしかいない特級呪術師、しかも一番『まとも』に任務を熟せるのは五条悟しかいないのだ。『最強』の名は伊達ではない、ということになる。
「だからさぁ、さっさと報告書出してそのまま仕事終わりの誘ってディナーでも、って思ってたのにホント散々だよね」
「いいから、さっさと専門病院行け」
「行ったところで何とかなるの、これ?」
「分からないから行くんだろ」
これ、と言って五条が自分で吐いたという花びらを摘まみ上げる。何度見てもただの花びらにしか見えない。五条が言うには、何の呪力も感じられないらしいが。呪いが関係していないなら、もうここでやれることはない。ここに居座られても仕事は進まないし、さっさといなくなってほしかった。
「病院なんて久しぶりだな」
「ついでに血糖値でも診てもらったらいい」
「さっさと終わらせて戻ってきたらまだいるかなー」
五条は再度摘まんでいた花びらをポケットに突っ込んで医務室から出て行った。
ここに来るまでに乗ってきていた車にまた乗りこむと、伊地知は車を発進させる。向かう先は家入が連絡を入れた病院で、高専が契約を結んでいる病院だ。
「伊地知、急いでね。僕十八時には戻ってきたいから」
「え!? いや……、無理じゃないでしょうか……。検査に何時間かかるか分かりませんし」
「どうせどんな検査したって意味無いだろうけどね。せいぜい胃カメラくらいじゃない? 花を誤食したとか疑われて終わりだよ」
「そうでしょうか……?」
バックミラー越しにこちらを伺う伊地知が視界に入るが、それを五条は一切無視した。
恐らく、と五条には考えがあった。
例えば遺伝性疾患に疣贅状表皮発育異常症というものがある。樹木男症候群とも呼ばれるその病は、手や足に木の皮の様なイボが生じるそうだ。遺伝性の病気は染色体になんらかの理由で異常が起こったり、欠陥のある遺伝子によって親から子に異常が伝わるために起こる。血友病や筋ジストロフィーが有名な病気だろう。これらの病気はほぼ男性のみが影響を受ける。
何代か前の五条家当主が、六眼と無下限呪術の抱き合わせを遺伝子操作によって生み出すことは出来ないか研究したことがあったらしい。自分が生まれるずっと昔の話だ。まだ日本にそういった研究が入ってきて間もない頃だった気がする。その研究は、その当主の代に六眼持ちが生まれなかったことによって早々に断絶したと小さな記録と当時の手記が残っている。過去に一度だけ、自分の遺伝子を専門機関で調べようという動きもあったらしいが、結局それは行われていない。もし万が一、その研究過程で損なわれることがあってはならない、という理由の他に、そんな調査に身体を明け渡す程の暇が無かった。六眼を持ち、完璧な状態で無下限呪術を扱えるとはいえ、五条悟はいつでも完璧に術式を扱えるわけではなかった。術式を扱う為の教本はあったが、六眼があればすぐに扱える、というものでもなかったし、自分自身の術式に対する理解度も必要だった。「勉強は大事」とは自分でもよく言っていたものだけど、いろんな分野を学んだし術式の修行に時間を費やしても、自分が完全に術式を使いこなせるようになったのは高専学生だった頃だ。
世の中には奇妙な病があることは知っている。この花を吐きだすという病が何らかの病気だというのなら、確かに専門機関で調べればわかるのかもしれない。ただ、これはどうにも違う気がしていた。この眼に何も映らないが、まだ何らかの術だと言われた方が納得できた。勿論、何度も確認しているようにこの花びらに残穢等は感じないし、自身に何らかの術を掛けられている気配も感じない。だからこそ、気が進まない。
花を吐く瞬間は非常に苦しいし気分も良くないが、ただそれだけだ。それ以外は至って健康だし、特に具合の悪さも感じない。ただただ、この後の予定がぐしゃぐしゃになったことだけが気に食わない。
彼女は今、まだ高専の事務室で仕事をしているだろうか。ふと彼女の顔を思い浮かべようとした時、車が停まった。どうやら病院に着いたらしい。既に話は通っているらしく、受付に行った伊地知が名を告げるとすぐに人がやってきた。
病院での検査も予想通り。一通り考え得る検査を時間を掛けて行っている。血液や尿検査は本日中に結果は出ないそうだが、どうせ期待しているような異常は出ないだろう。医者も首を傾げて「何も異常は見当たりません」と繰り返す。ほらやっぱり。まだ医者と話している伊地知を急かして車に乗り込んだ。さっさと高専に戻って報告書を出しに行きたい。思えば真っ直ぐ医務室向かってそのまま病院に来たから任務完了報告すら終わっていない。伊地知が手を回しているかもしれないが、報告書を提出しに事務室に行くことだけは絶対にやっていないだろう。やるな、と常日頃言っている。
もしかしたら僕の報告書が出てなくて帰れていないかもしれない、と思うと顔がにやける。お詫びに、という名目でご飯に連れていける。やっぱり調べていた店たちは無駄にならないかもしれない。後はが何を食べたいと言うだろうか……そこまで考えて喉に違和感を生じた。さっきまで何も感じなかったのに、急に何かが張り付いたような感覚。軽く咳き込んでもその異物感は収まらない。この感覚に、覚えがある。ポケットに突っこんだままの花は、さっき医者に渡してもう手元にないけれど、多分これだ。ついさっき、この花びらたちを吐きだした感覚と一緒だと思う。けれど今度は吐きだすまでに至らなかった。喉をさすっていると、ようやく運転席に座った伊地知が心配そうな目で見てくる。
「やはりまだ調べてもらった方が……」
「これ以上何を調べるっていうのさ。何とも無いから早く出して」
首をすくめた伊地知が諦めた様にキーを回してエンジンを掛けた。
これが本当に何らかの病であれ、呪いであれ、今の五条に出来ることなど何もない。正直どうでもよかったが、花を吐くという奇妙な状況とこれから先一緒に過ごしていくのも面倒だった。吐かなくて済むならそうしたい。どうしたものかな、と考えた時、頭に浮かぶ一級呪術師の顔があったが、さて。彼女に金を積めばやってくれるだろうが……あまりにも荒唐無稽すぎるし、呪術師に頼むものでもない気がする。
高専に着いて、真っ先に事務室に向かった。時刻はまもなく二十時が終わってしまう。流石にもういないだろうか。残業するにはあまりにも長い時間だ。
「五条君、君ってば本当に愉快な事になってるね」
ふと廊下の先に、見覚えのある姿を確認した。つい先ほどまで脳裏に浮かんでいた呪術師だ。
「冥さん」
「ふらっと寄ってみたら、随分面白い事になっていると聞いたよ」
「面白くも何とも無いよ。散々な事ばかりさ」
「人間が吐き出した花、なんて珍しいけど売れなさそうだね。信憑性に欠けるし」
「欲しいならあげるよ。と言ってもいつ吐きだすか分かんないけど」
「ふふ、考えておこうかな。……いやね、ちょっと気になることがあってね。調べてあげようかと思って」
「……でもお高いんでしょ?」
「君が気にするような値段じゃないよ」
都合がいいにはいいし、冥冥が言うように、五条にとってははした金になるような金額なんだろう。ただ、向こうから言い出してきたということが気になる。
「当てでもあるの、冥さん」
「それが何であるか、についてならそんなに時間はかからないと思うね。ただ、完全に治す方法については難しいかな」
どうする? と微笑む冥冥を見て、五条は軽くため息をついた。廊下の先にある事務室は、すでに明かりが消えている様だった。