愛されずとも花は咲く 01
その時五条悟は任務をいつも通り熟し、帰路についていた。馴染みの補助監督が運転する社内の後部座席で優雅に足を組み、スマホで話題のカフェやビュッフェの情報を検索しつつ、どこに彼女を誘おうか、とここ最近の課題に頭を悩ませていた。頭を悩ませてはいたけれど、それは何一つ億劫なものではない。むしろウキウキ気分で鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌にスマホを操作する指は弾んでいるので、運転席からバックミラー越しにそっと様子を伺っている伊地知潔高は少しだけ安心していた。いつだって五条悟の傍若無人で破天荒な行動に付き合わされるのは大概が彼であり、いつ何時理不尽を言われるか分かったものじゃない、と日々ストレスを抱えているのだから、偶には胃に優しい日があっても罰は当たるまい。ただでさえ狭い車内の中、助けてくれる人はいるわけがないのだから。五条に気付かれないようにそっと息をつく。――そうやって油断していたのがいけなかったのだろうか。
市街地から離れ、高専所有の山に入ったところだった。
いつもは五条悟の自宅マンションまで送り届けるのだが、今回は回収した呪物に曰くがありすぎて、安全面を考慮して五条悟自身で保管庫に運ぶことになっていた。いつもは面倒がり適当な扱いをする五条ですら、文句を言いつつも大人しく車に乗って高専に向かう事を是としたので、相当危険な物なのだろう。後部座席の五条の隣に無造作に置かれているそれは布にくるまれていて中が分からないようになっている。一般人の目に触れさせるには少しよろしくない見た目をしているためだ。一応五条は「下手なことしなきゃ何もないけど」と言って車に乗る時に座席に放り投げていたので、ちょっと投げた程度なら何も起こらないのかもしれないが、用心に越したことは無い。いつもより運転も慎重になるというものだ。そもそも伊地知が東京駅まで迎えに行くまで、五条はそれを持って新幹線に乗っていたのだから、言う通りそんなに気を遣わなくてもいいのかもしれない。しかし伊地知はそこまで考えて、いやしかし五条さんのやることだからな、と考えを改めた。今回の五条の任務内容について記憶を辿ろうとした時だった。
五条悟が急に咳き込んだ。
咳き込むこと自体は珍しくもなんともないが、ただその咳き込みようがあまりにも激しく苦しそうに呼吸をする音が聞こえたから、伊地知は慌てて車を停めて後ろを振り返った。振り返って、そこに広がる予想もしなかった光景に、掛けようとした言葉は口から出て来なかった。
上機嫌でスマホを見ていた五条は、急に喉奥からせり上がってくる固まりを咄嗟に空いている左手で受け止めるように口を押えた。随分久しぶりに感じる酷い吐き気に眉が寄る。どれだけ咳き込んでも喉に何かが張り付いている感覚が消えなくて空咳が止まらない。耳に随分と大きく咳き込む音が聞こえる。自分がしている咳の音なのにどこか遠く感じるのは、息が苦しいからだろうか。いつの間にか車は停まっていて、伊地知が随分驚いた顔をしてこちらを見ているのを視界の端で捉える余裕が徐々に戻って来た。
何かを吐きだしたのは分かっている。ようやく咳が落ち着いた頃には、自分の座っていた後部座席が随分様変わりしていた。その光景に目を見張る。
白やピンク、大小も様々な花びらが散らばっていた。口を押えていた手にも花びらがついているし、口の中に残っている異物を指でつまみ出せば、それも花びらだった。
「……何これ?」
思わず目を覆っていた黒い布を引き下げてまじまじと花びらを見ても、何の変わりもない。見るからにただの花びら、にしか見えない。ただ、確実にこれは自分が今吐きだしたものだった。
「あの……五条さん……」
大丈夫ですか、と続いた声に何も返さずただ花びらを見つめる。花の名前なんぞに詳しくないから、この花びらが何の花かちっとも分からない。ちらりと横に乱雑に置かれたままの回収した呪物を見やるがすぐに関係が無いな、と視線を戻す。この呪物の呪力とこの花びらに何の繋がりも見えなかったからだ。そもそもこの花びらに呪力も残穢も視えない。
恐る恐る、と言った体で、けれどどこか心配するかのような表情の伊地知に向かってため息をついた。びくりと肩を跳ねさせている。
「伊地知、とりあえずこのまま高専向かって」
「え、ですが……」
「いいから。早く出して。じゃないと」
「わ、分かりました!」
特に何かペナルティを付ける気はなかったが、そんなニュアンスを匂わせれば伊地知は素早い動きで車を再び発進させた。もう高専は目と鼻の先、十分もかからずに着く。
先程感じた酷い吐き気も、喉奥の異物感もすっかり消えて無くなっていた。特に体に不調も感じられない。膝の上に散らばったままの花びらを適当に払う。後で伊地知が掃除するだろう。まだ少し時間はあるが、眺めていたスマホをまた見る気分にもなれず、ズボンのポケットにしまった。それから少し考えて、払ったばかりの花びらをいくつか拾い上げて、スマホを入れた方とは逆側のポケットにそのまま突っ込んだ。外を眺めても、流れる木々に似たような色の花は咲いていない。
一先ず、硝子のところに行ってみるか。
同期の反転術式の使い手を思い浮かべる。行ってみようと思いつつも、恐らく無意味に終わるだろうと思っているが、もしかしたら何か知っているかもしれない。医師免許を持っているれっきとした医者だし、硝子が外傷のみだけではなく。色んな症例に通じている事は知っていた。
まだ日が落ちるには早い時間、せっかく早く仕事が終わったというのに立てていた食事の予定が台無しだ、とため息をつく。その音に車を運転している伊地知がまた肩を跳ねさせた。お前に対してじゃないよ、とは思いつつ別にわざわざ言ってやる道理も無いのでそのまま黙っている事にした。せっかく彼女を誘う予定だったのに、予定を崩されて最悪の気分であるし。座席を蹴り飛ばさなかっただけ感謝しろよ、と伊地知にとっては随分押し付けがましい寛容さを以って行き場のない鬱憤を飲み込んだ。