元より貴方しか見ていない 02
まずは一緒に暮らしてしまおう、と同棲を持ち掛ければ彼女の両親が諸手を上げて賛同した。親がそう言うのなら、とも何も文句を言うことなく部屋を選んでいた。自分はまだ後二年高専で寮生活をしなくてはならないが、別に門限があるわけでもないし、と暮らす部屋で過ごすことにしよう、と二人で暮らすのに十分広い部屋にした。事実上の結婚生活に確かに胸を躍らせた。
家の連中がの大学進学をあまりよく思っていないことは分かっている。今の世の中、大学進学は男女問わず普通で、むしろ高卒で終わる事の方が少ないから世間体を気にするジジイ共もちくちくと嫌味を言うだけだった。それでも受験生のに余計な心労を掛けさせるなんて良いご身分だな、とちょっと声を掛けたら途端に大人しくなった。次期当主の僕に逆らえる奴なんていないのだから当然だ。
春からの新生活は思っていた以上に順調だった。いや、嘘言った。家に帰ればがいる生活が素晴らしすぎて浮かれまくって、でも下手に手を出さないように理性と戦うために随分とぎこちない態度を取ってしまった。そんな僕をは何一つ疑問に思う様子もなく、ただ淡々と過ごしていた。大学という新しい生活の場に慣れるのに少し忙しくしていたけれど、僕みたいに任務で全国各地へ飛ぶわけでもないので、こちらから見ると落ち着いて過ごしているように見えた。
家の事は全てがやろうとしたから、それには待ったをかけた。家事の分担を申し出れば、随分と怪訝そうな顔で首を傾げられた。いや、君僕の奥さんになるんであって家政婦ではないんだからね。家の事は妻がやる、なんて前時代的な事は言わないし。寮生活三年もすればそれなりの家事は出来るようになった。そう言ってやれば疑うような目で見られたけど、試しに洗濯機を回し食器を洗ってみせれば納得したように頷いた。
「家事なんてやった事無いと思ってた」
「炒飯とか評判良かったんだよ。今度作ってやろうか」
「へぇ……」
今のところ傑や硝子にも褒められた炒飯を披露する機会は訪れていない。特級呪術師としてめちゃくちゃ忙しくて仕方なかったからだ。全然家に帰れなくて、帰っても疲れ果てて勧められるがままにソファに座り、が用意した食事を食べてが沸かしてくれた風呂に入って、が整えたベッドで寝る。繁忙期はそんな生活をしていた。ベッドは絶対に一緒に寝たかったから大きなベッドがいいと譲らなかったのだけど、は「キングサイズは流石に部屋が狭くなる」とだけ言って一緒に寝る事に関しては何も言わなかった。脈があるのかないのか本当に判断に困る。どうでもいいと思われすぎてて、全くこちらの成すことに興味が無いんじゃないかと不安になる。かと言って彼女の気持ちを確かめる、なんて段階にもないだろうし、そもそもそんな面倒な事をしてに距離を置かれたら困る。だから、という訳でもないけれど正月に書かせた婚姻届を確認するようになった。住居が変わって、書き直さないと無効になる何の効力も無いただの紙切れになってしまったものだけど。がいつ「出したい」と言ってきても良い様に既に新しい婚姻届の用紙は準備してある。証人欄も記入済みで、後は僕たちが書けばいいだけの状態のものが。
婚姻届の所在を聞けば、は首を傾げながら部屋から持ってきてくれる。その内リビングのテレビボードの引き出しの中から出てくるようになった。クリアファイルに入ったそれを取り出してきて「出すの?」と聞いてくる。出したいけどさぁ。
「出したいけどさぁ、言ったじゃん。が大学卒業したら出そう、って。勿論が出したいなら今すぐ出してもいいけど」
出したいけどさぁ、でも全然僕の事好きじゃないじゃん。全然惚れてくれた様子ないし、自信も無い。好きな相手に向ける目がどんな目をしているかくらいは知っている。でもの目からはそんな熱を一切感じないのだから。不貞腐れたくもなる。でも、まだ時間はある。が大学を卒業するまで四年ある。まだ始まったばかりだ。まだ僕は頑張りが足りない。もう少しでこのクソ忙しい繁忙期も終わる。そうしたらちょうどの夏休みも始まるだろう。大学の夏休みは長いと聞いているし、そしたらと旅行に行こう。デートすらまともに連れていけていない。そもそもこうして一緒に暮らすまで年に一度年末年始に数日会うだけの婚約者だった。ただ数日自分の選んだ着物を身に纏うを自分の隣に置いて眺めて、それで満足しようとしていた。全然満足出来なかったけど。今の生活、めちゃくちゃ最高だけど。
ぼうっとしていると、が白くて細い指で婚姻届を指しながら言った。
「出すなら書き直さないと受理されないよ。新しい婚姻届貰ってきてね」
「……は?」
が婚姻届貰ってきて、って言った……? 驚いている僕を尻目に、は懇切丁寧に住所欄を指して受理されない理由を説明している。そんな事は知っている。言われなくても、最初に書かせた時から無効になることは分かっていた。
「……新しい婚姻届、貰ってきたら書くの?」
「書くけど。書かないと提出出来ないでしょ」
「僕と結婚するって事?」
「そうだけど……私達婚約者でしょ」
「うん。そうなんだけど。そうなんだけどさぁ」
「悟が何を言いたいのか全然わかんない。結婚したくないわけじゃないんだよね? 何でそんなこと聞くの?」
「むしろ僕のセリフなんだけど。分かってる? 僕と結婚して、子供産んで、僕とその子供とずっと一緒に過ごすんだけど、」
本当に分からない。どうでも良ければ、その全てを何も感じず受け入れてしまうものなんだろうか。普通、好きでも何でもない男と結婚生活なんて出来ないと思うんだけど、僕の感覚がおかしいんだろうか。それとも、実は僕の事好きだとかいう都合のよすぎる事が起こってたりするんだろうか。いやいやまさかそんな。
「……僕の事、好き?」
「……? それなりに」
僕の事好きだって。嘘だ。いや疑っているわけじゃないけど。彼女は嘘を付かないし。あー、でも本当に? それなりに好きだって。つまりそれって僕達両想いじゃん。最高。
が何を当たり前のことを、と言うような顔をしてこちらを見ている。可愛い。思わず顔を覆って天を仰いだ。
「結婚しよ」
「うん」
新しい婚姻届どこにしまったっけ。