きっと振り向かせてみせる
「あけおめ。とりあえずコレ書いてくんない?」
十六歳を過ぎた頃から年越し等の大きな行事の際は五条本家に呼び出されるようになった。五条悟の婚約者として常に五条悟の横で堅苦しい着物を身に纏い、笑顔で立つだけ。不用意な発言をしないように、ときつく言い含められているからだ。着物だって、こんな場でさえなければ素直に喜べるくらい素敵なものだというのに。
そもそも今年は十八歳の冬、大学受験つまりはセンター試験が目の前だから来たくなかったのに、最強呪術師の妻に学力は必要ないという腐った考えの元反論を許されることは無かった。
分家だか遠縁の親戚だかよく分からないけれど、我が家は呪術界に名を馳せる御三家の(どっかの)縁筋になるらしい。一応呪術師として活動出来るが故に色々諦められないのだろう。両親は息子や娘達を所謂政略結婚させることに夢中だった。例え息子や娘が御三家と婚姻を結んだところで何のリターンも無いだろうことは子供にだって分かっているのにも関わらず、無我夢中だった。兄も姉もそんな両親に嫌気がさして早々に家を出て行った。「この家にいたらお前に自由はなくなるぞ」兄姉達は家を出て行くその瞬間まで私の事を心配してくれていたのだと思う。
自由が欲しいと思ったことは無い。不自由だと思っていないからだ。両親は金やら権力やらに目が無いが、それだけ生活水準を落とすことを嫌がった。それは子供たちへも同じだった。見栄っ張りと言われてしまえばそれだけだが、物に溢れている生活を送っていたので欲しいものが手に入らないという状況が早々なかったのである。
そして両親は殊更、私の存在を喜んだ。何せ御三家の筆頭ともいえるあの五条家の、それも数百年ぶりの六眼と無下限呪術の抱き合わせで生まれた嫡男と同い年であったからだ。
それはもう、逆に不敬なんじゃないかって程に私を売り込んだらしい。五条の本家はまるで横溝正史の小説の舞台かと思うくらい因習に彩られたおどろおどろしい感じがする。人間関係の陰湿さが多分出ているに違いない。呪術師は呪いを作らないとか絶対嘘。馬鹿みたいに巨大な屋敷に、七五三で着た時よりもずっと上等な赤い着物を着せられて訪れた事がある。10歳かそこらだったはずだ。五条悟の許嫁として名乗りを上げる家が多すぎて一々裁いてられないからまとめて相手してしまおうという事で上は18歳から下は5歳まで集められたのだ。両親の気合いの入りようは、それはもう凄かった。きっと私がもっと成長していたらエステにでも突っ込んだんじゃないかというくらい。まぁでも何をしても多分無駄だったのだと思う。何せ挨拶で通された部屋は大奥なんかで見るような謁見室もかくやと言った広さで、はるか遠くに(多分あれが五条悟……っぽい?)と思える人影が見える程度。こっちの挨拶する声なんて届いていないんじゃないか。少なくとも向こうが何か言っていたとしてもこっちには届いていない。私の前に挨拶を済ませたのであろう人たちの顔を見ても分かる。誰一人芳しい顔はしていなかった。
五条悟に少しは同情してもいい。その時確かに思った。次から次へと欠片も興味ないであろう人々の挨拶を聞かされてうんざりだろう。まぁ本当に聞いているかどうかは知らないんだけど。私に出来ることはせいぜい同情することだけだな、と思って本人に伝わりもしない同情を勝手にすることにした。どうせこうして会うのはこれが最後になるのだろうから。これを会うと言っていいのかわからないけど。
失敗も成功もないお見合いから帰ってきた数日後、五条本家からやってきた封書が来るまでは半分五条悟の事など忘れていた。
夏休みの事だったと思う。汗をかいたお茶を片手に宿題のプリントを片付けていた時、母がバタバタと音を立てながらどこか興奮した様子でやってきた。片手には手紙が握られている。曰く、私がかの五条悟の許嫁に決定したのだとか。三回は聞きなおしたし、五回は読み直した。小学生には難しい言葉が並んでいたから国語辞典引っ張り出してきたし、兄や姉にも読んでもらった。誰が読んでも「五条悟の許嫁として決定した」と書いてあるのだ。
それ以来、生活が激変した。両親は親族達に大きな顔をするようになったし、兄や姉は殊更私を気の毒に思うのか甘やかすようになった。呪術師関係の人間は羨望と嫉妬の目で私を見る。嫌味なんて日常茶飯事だ。「どうしてアナタみたいな格の低い人間が……」耳タコすぎてもうとっくに聞き飽きた。
「……なに、これ」
「婚姻届。ほら、僕去年の十二月に十八歳になったからさ。結婚できる年齢になったんだよ」
「でも未成年だし」
「親のサインなら揃ってる。の両親も快く書いてくれたよ」
そりゃあそうだろう。私が五条悟の婚約者になったことを誰よりも何よりも喜んだのは両親だ。学生結婚だろうが何も気にしないだろう。分かりきっていたことだ。予想通りすぎて最早笑えない。
「そう」
親のサインがあるなら、いいか。
もう寝ようと思っていたから筆記用具も片付けてしまっている。センターの勉強するために持ってきていたペンケースを取り出してボールペンを持つ。婚姻届って普通のボールペンで書いていいんだよね。
「今印鑑なんて持ってないけど」
「……書くの?」
「書いて、って言ったのそっちじゃない」
「そうだけど……いいの?」
「変なこと聞くんだね」
兄や姉、親族の中の少数は私を「可哀想」だと言う。控えめで大人しい性格が災いして、嫌だと言い出せないのだと。
見当違いもいいところだ。彼らも彼女らも政略結婚しているというのに、自分の事を棚に上げる。権力や地位、まるで封建制度で出来ている呪術界で自由恋愛や結婚が出来るのなんて、一般家庭出身者のみだ。
憧れるのが悪い事じゃない。自由に恋して結婚したいのなら、出来ないことじゃないだろう。その為に失わなくてはならないものはあるだろうが。
代々呪術師の家系で、曲がりなりにも呪力があって、親が意欲的である。これだけ揃えば自分が政略結婚させられるに決まっているのだ。その相手があの五条悟であることに多少驚きはしたが、同年代である事を鑑みれば私はきっと幸運な人間だ。どうせ私の意思など関係ない。だから誰と結婚しようが変わらない。言ってしまえば、どうでもいい。
「大学、受験するんだろ」
「高専だってまだ後二年? あるよね。それとも私は大学行けなくなるのかな」
「いや……行きたいなら行けるよ」
「じゃあ行きたいかなぁ」
書き終えた婚姻届を渡した。受け取った五条悟は自分で書けと言ったくせに何が面白くないのか、随分と微妙な顔をしている。婚姻届は役所に提出しなければその効果を発揮しない。もしかして朝起きたら提出に連れて行かれるのだろうか。未成年二人で役所に行って何も言われなければいいけど。
「……が大学卒業したら、コレ出して式を挙げよっか」
「え?」
「だから、それまでに……」
渡した婚姻届が手元に戻ってきた。彼は何事かを考え込んでいるようで少し黙っていたがすぐに口を開いた。
「コレはに預けとく。無くしても別にいいけど……また書けばいいし。が大学卒業する前に出したくなったら、勿論出そう」
「……はぁ……?」
私がもし大学卒業するとしたらもう既にこの婚姻届に書いている事柄、主に住所が異なっているだろうからどのみち書き直しなんだけど。だって私、大学行くなら一人暮らし始める予定だし。何で無駄な事をさせたんだ、と首を傾げる。
結局私の手元に後は提出するだけとなった婚姻届が残されたまま。それをどうすることもせず許された通り大学へ進学することになった。周りは「大学に行く必要はない」だとか「どうしても行きたいなら短大でいいだろう」だの色々言ってきたが、どうやら五条悟が口を出してくれたのかある時を境にピタリと文句を言われなくなった。進学先の大学が東京であったからなのか、高専に在学中のはずである五条悟も一緒に住む前提で部屋選びをさせられたので、婚姻届を出しておらずとも事実婚状態であると認識されたらしい。彼らは五条悟の子供が生まれることを非常に期待しているから。五条悟は教師になって呪術界を変えると言って随分忙しくしている。寮に帰らず私のいる家に帰ってくるので、その時はしっかり面倒を見ることにしている。それが私の役割だからだ。
「あのさ、あの時書いた婚姻届まだ持ってる?」
五条悟はときどき婚姻届の所在を聞いてくる。決まって非常に疲れているのが目に見えて分かる時に聞いてくる。さっさと風呂入って寝ろ、と言っても答えが返ってくるまで動こうとしない。仕方ないのでクリアファイルに入れてリビングのいつでも手に取れる引き出しの中にしまっているそれを取り出して見せてやる。
「あるよ。出すの?」
「言ったじゃん。が大学卒業したら出そう、って。勿論が出したいなら今すぐ出してもいいけど」
既にこの婚姻届が提出するには至らなくなっていることは気付いていないのだろうか。大学進学してここに来るときに住民登録先が変わった。書いた時とそれこそ住所が変わっているのだ。もしかして忙しすぎてそこらへん抜けているのかもしれない。
「出すなら書き直さないと受理されないよ。新しい婚姻届貰ってきてね」
「……は?」
親切に教えてあげたのに、何でそんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているのか。本当に不備の存在に気付いていなかったのか。丁寧に指をさして説明したのに、「そうじゃないんだけど」と手を掴まれて首を傾げる。
婚姻届を書けと言われた時もそうだけど、五条悟はいまいち何を求めてどうしてほしいのか推し量るのが難しい。これから先夫婦としてやっていかなくてはいけないのだから、もうちょっと思っている事を素直に口に出してもらうようにしなくてはいけない。
結婚なんてどうにでもしてくれていいけど、どうせ結婚するなら仮面夫婦状態は出来るだけ避けたいと思うのは当然でしょう。