人魚の住む森 01






 特級呪物『人魚』。人魚の肉は非常に毒性が強く、それを食べて不老不死になれる者は僅かであるとされている。人魚の肉を食べた人間で不老不死になれなかった者は、死亡するか、生き残っても知性や理性を失い半魚人のような姿の化け物へと変貌する。食べた人間の体質によって、変化の程度はさまざまであるようだ。寿命は永遠のようだが、延髄を貫かれるなどで絶命させることが可能。人間だけでなく犬や金魚も化け物の姿へと変貌する。
 肉以外にも人魚の灰は、地面に撒けば一年中花を咲かすことが出来るうえ、死体さえも蘇ると記録に残っている。また、人魚の肉を腐らせて生成される毒薬は非常に強く特級呪霊にも効果が見られた。かの特級仮想怨霊『八百比丘尼』を生み出すに至ったとされる呪物である。呪物である『人魚』には人格が存在しておらず、人魚の肉を食した者に受胎という形で意識を発現することはないとされている。
 現在、その存在を確認できていない。
 東京都立呪術高等専門学校一年、一級呪術師である五条悟はその日三日間にわたる地方任務を終えて久々に寮の自室に戻ってきたばかりだった。討伐対象の呪霊自体は汗をかくまでもなく一瞬と言っても過言でない程あっさり祓うことが出来たが、交通手段が二時間に一本バスが来るか来ないかという程の地方であったことと、目的の呪霊の潜伏場所が車で入れない程の獣道を超えた先だというので、歩くしかなかったため、いつも以上に疲弊していた。任務でどれだけ疲れていようが、明日の授業は免除にならない。任務に対しての報酬は出るが、結局は学生の身であるから学業の優先度がそれなりに存在している。それでも一般の高校より単位に関しては緩いはずであるが、生憎ここ以外の高校に通っていた経験がないため判断することが出来ない。
 とにかく酷く疲れていた。このままベッドで眠りに付いてしまいたいが、何も食べていないことを思い出す。何かを口に入れたい気分ではなかったけれど、誰が言ったのか『疲れた時には甘いもの』という言葉を思い出して、自室の冷蔵庫を開けたが何も入っておらず渋々財布を引っ掴んで自動販売機に向かう羽目になった。
 後から思い返せば、この時冷蔵庫にいちごミルクが入っていれば彼女に出会う事は無かっただろう。そう思うと何がきっかけとなるか分からないものだなぁ、と五条悟は後に感心したのだった。

「それ、俺じゃなきゃダメなわけ?」
「お前しか空いている呪術師がいない」

 もっと寮に近いところに自販機を置いてくれないだろうか、と思いつつ校内に一か所しかない自販機設置場所に向かう。セキュリティの関係上、校内に入れる自販機業者が限られているため自販機のラインナップも随分限られている。お茶が五列もあるしエナジードリンクも三列ある。学生だけでなく、ここを活動拠点にしている呪術師も使用していることを考えると、如何に呪術師という職業がハードであるか想像に難くないだろうが、五条悟にとってはあまり関係がなかった。
 自販機で目的のいちごミルクを購入後、さっさと自室に戻って寝ようとしたところで担任である夜蛾に会い嫌な予感がした。目が合った途端にこちらに近寄ってきたからだ。

「しかもまた山奥じゃん……。何でこんな人も少ない過疎地域に呪霊がいるんだっての」
「今回は呪霊じゃない。呪物の回収任務だ」
「呪物?」
「特級呪物『人魚』の可能性を確認した。お前の任務は呪物が『人魚』であるか確認後、回収。そして万が一呪物を口にしたものがいた場合、拘束し高専へ連行することだ」
「え? マジで『人魚』? 本当にあったんだ……」

 渡された資料には地域の情報が載っているが、肝心の呪物に関してその姿かたちすら情報がない。特級呪物『人魚』、実家にいたころからその存在については聞いたことがある。人魚の目撃情報やその肉を食べた時の効果など、非呪術師でも知られているメジャーな妖怪であるのに、その姿を呪術師が確認したという記録はほぼない。伝説上の呪物とされかけていたが、まさか今その存在が表に出てくるとは、相当珍しい事であると理解していた。
 つい先ほどまで疲れを感じていたし、今だって別に疲れが消えてなくなったわけじゃない。ただ『人魚』というものに興味があった。

「でもさー、『人魚』がどういう形してるかわからないと回収しようもなくね?」
「お前しか空いている呪術師がいなかったのが幸いしたな。お前の六眼が使えるだろう」
「どーかな……『それ』が単なる切り身で呪力も無ければただの刺身にしか見えないだろうけどね」

 そう言ってさっさと踵を返し、自室に戻って片付けていなかったボストンバッグを引っ掴み校門前に停まっている車に乗り込んだ。夜蛾から渡された資料をめくる。先程流して見たより読み込みはしたが、結局新しい情報を得ることは無かった。むしろ実家に所蔵される文献を読んでいた自分の方がまだ詳しいのではないかと思えるくらいだ。

「二十七年の夏四月の己亥の朔にして壬寅に、近江の国の言さく、「蒲生河に物あり。其の形、人の如し」とをます。秋七月に、摂津国に漁夫有りて、罟を堀江に沈けり。物有りて罟に入る。其の形、児の如し。魚にも非ず、人にも非ず、名けむ所を知らず……ねぇ」

 人魚自体の歴史は古く、日本書紀にも人魚についての記述があるし何なら日本全国各地それなりに人魚伝説が残っている。日本が海に囲まれた島国だから海や川があればいくらでも人魚伝説を想像し伝えやすいのだろう。とはいえこれから向かわされるのは海から離れた山奥だ。川は流れているのかもしれないが、そんなに大きなものではないだろう。地図にも載っていない。資料によれば登山が趣味の窓が山奥で迷った時に辿り着いた集落にて『人魚』が信仰されており、一番長く生きている巫女がおよそ500歳だとか。正直眉唾ものである。しかし僅かながらに呪力の残穢を感じ取ったためにこの任務が発行されたそうだ。もし本当に『人魚』であれば呪術界において歴史的発見になるだろうし、もし万が一特級呪物たる『人魚』を食べて適応した人間がいたとしたら……まず間違いなく秘匿死刑になるだろう。ただし、執行が出来れば、だが。なにせ『人魚』の肉を食べたものは不老不死になるとされている。その程度がどれ程のものか分かっていない。つまり殺しきることが出来るのかどうか、が問題だ。唯一記録に残っている特級仮想怨霊『八百比丘尼』の討伐についても、最後は呪霊の自死であるし、なにより『人魚』の肉を食べたとされる、というだけで確定じゃない。言うなれば誰も特級呪物『人魚』を見た事が無いのだ。だからこそ伝説になっていたし、その存在も不確かなものだったのだ。高野山に保管されているという人魚のミイラ、あれは呪術界においては本物ではないと結論付けられている。
 五条を乗せた車は大分前に東京を出て目的地の集落が存在する県内に入っていた。さらにここから山に入ることになる。今回の任務先は前回と違って集落まで車で入ることが可能であった。集落自体も別に閉鎖的でも何でもない様子で、子供たちは一時間かかるが山から出て麓の学校に通っているというし、交流はあるようだ。電波も繋がるらしい。

「このまま集落まではほぼ一本道みたいですね。ただ大分登るらしいですけど。ここから車で30分のところにあるバス停を超えてさらに約一時間くらいで着くみたいです」

 地元の人間に道を確認していた補助監督が戻ってきた。どれだけ掛かろうが歩くよりはマシである。そう思えば文句を言う事も無かった。そもそも補助監督が車を一旦停めるまでしっかり眠っていたのだからせいぜいゆっくり寝たな、くらいしか思う事も無いともいう。
 車は山に入り坂道を登り始める。先程聞いた話ではこの先にバス停があるらしい。おそらく集落の人間が使うためのものだろう。ふと思い立ってバスの時刻表を調べてみれば、昼の時間帯であれば一時間に二、三本はバスが通るらしい。やっぱり前のところよりはマシだな、とため息をついた。ふと窓の外見れば、木しか見えない。「あ、バス停が見えましたよ」補助監督が言ったので進行方向に目を向けた。

「止めて」
「え?」
「いいから、止めて。バス停のところ、いるでしょ」

 五条に言われて補助監督はバス停を見やる。ポツンと一人、黒っぽい服を着た人が立っているのが見えた。徐々にスピードを落として近づいていけば、それは今後ろに載せている五条悟と同年代位の女子学生であるようだ。黒いセーラー服は麓の高校の制服だと思い至った。車を止めると、バス停に取っていた少女が目を瞬かせている。すぐに後部座席のドアが開いて五条が車を降りた。いつもかけているサングラスを外している。

「君、この先の集落に住んでんの?」
「……えぇ、そうですけど」

 助手席側の窓を少し開けて会話が聞こえるようにした。五条悟が一般人に大人しく話を聞きだせる人間だと補助監督には思えなかったからだ。いつもならば彼が進んで関りを持とうとせず補助監督が話を聞いてくるのを待っているはずだというのに、一体どうしたというのだろうか。セーラー服の少女が好みであったとかだろうか。補助監督の目から見て、その少女が特別美しいとか可愛らしいとは思わない。ただただ平凡、至ってどこにでもいそうな女子高生に見える。

「人魚、いるんだって?」

 あまりにも直球すぎるその質問に慌てて補助監督も車から降りた。女子高生とはいえ、何か疑われたりすると面倒なことになり兼ねない。信仰が絡むとどんなに穏やかに見える人間も変貌を遂げるというのをこの世界に入って何度も経験してきた。

「あ、あの実は……!」
「ふふ、どちらで聞かれたんでしょう。確かに人魚信仰はありますが、人魚はいません。いたらとうの昔に大騒ぎになっているでしょう?」
「まぁ、そりゃそーだな」

 大学の卒論について調べている、という定番の建前を使用するかと考えていた所、予想は外れて女子高生は何も訝る様子もなくころころと笑いながら答えた。

「人魚の肉を食べて五百年生きてる巫女がいるとか?」
「あぁ……そう言われているおばば様ならいますけど。人魚塚と呼ばれる岩があるだけで人魚にまつわる何かがあるわけでもないんですよ」
「へぇ、じゃあやっぱ眉唾なんだ?」
「さぁ? 村の老人達は不老不死を強く信じているみたいですけど」
「信じてんの?」
「昔、人魚の肉を食べたとか。でも普通に年を取っていますし、魚の刺身を人魚の肉だとか言われて騙されたんでしょう。見た目じゃ分からないから」
「ふぅん……。あ、でもその人魚塚っての見てみたいな。案内してくれない? これからどっか行く予定だった?」
「ふふ、構いませんよ。私も帰る所でしたから」
「おっけ。じゃあ車乗っていきなよ。ここから時間かかるんでしょ。ね、いーよね?」
「え、あ、はい! 勿論、どうぞ」

 さっさと話を進めてしまった五条悟に目で促されて、補助監督は後部座席のドアを開けた。先に五条が乗り込んで、「乗りなよ」と声を掛ける。女子高生がお邪魔します、と呟いて五条の隣に座った。
 五条悟はサングラスを外したまま、どこか興味深そうに女子高生を見ている。つい先ほどまではずっと窓の外を興味なさげに眺めていたというのに、普通の女子高生がそんなに珍しいのだろうか、と彼の同級生の女子を思い浮かべて補助監督は口を噤んだ。