偽装結婚()降谷零の思惑



一度手離してしまった彼女が、地方支社から東都の本社へ異動になったのは偶然だった。
しかし、引っ越したばかりの彼女が買い物をするであろう日に出先で会ったのは偶然ではない。
高校卒業後、両親の引っ越しに合わせて北海道へと進学を決めた彼女とは、そこで別れたも同然だった。お互い別れようだとは口にしなかったけど、結局最後までアイツは俺の気持ちを察することなく終わってしまった。
明確に口にしなかった自分も悪かったとは思うけど、キスもその先もしておいて、『恋人の振り』はないだろう。
だから、彼女がこちらに偶然にも戻ってくると知った時、絶対に逃がすものかと決めたのだ。



「あれ、先輩。お久し振りですね」
「あぁ、久し振りだな。時間あるか? 昼食べてないなら一緒にどうだ?」



数年ぶりにあった元恋人は、大分変っていた。
やはり、化粧をするようになったのが一番の変化だろう。学生の頃は「化粧とか面倒」とリップクリームすら常備していなかったというのに。俺の知らない空白の時間が憎らしく思えた。
とにかく先ずは外堀から埋めていくか、と現在のバイト先であるポアロに向かう。ちょうど今日は蘭さんと園子さんが来ているはずだ。彼女たちに紹介すれば、周知も早いだろう。特にこういった恋愛ごとに関しては。



「今俺は《安室透》という名前で私立探偵兼喫茶店のアルバイトをしている。毛利小五郎を知っているか? 彼の弟子としてたまに事件に関わることもある」
「はぁ……」



怪訝そうな顔をしてはいるが、説明を求めてはこない。は昔からそうだ。極度のめんどくさがり屋で、興味のない事には関心を示さない。本人は「省エネ主義」だとか馬鹿げたことを言っていたが、当時は俺に興味はないのかと落ち込むこともあったくらいだ。
まぁ事なかれ主義と言ってもいい。面倒ごとに関わりたくないから深くは聞かない。潜入捜査中である俺にとって、追及されないのは有り難いが、少し寂しい気持ちもある。



「これから行くのは俺が働いている喫茶ポアロ。前みたいに、《透くん》とでも呼んでくれ」
「え?」
「恋人いるのか?」
「いや、いませんけど……。またやるんですか?」



恋人の有無くらいはとっくに調べが付いていた。というより既に交際報告書は完成している。
高校時代、と出会ったのは偶然だった。
切羽詰まった顔で走っているの後ろを、男が追いかけまわしているのを見て、すぐにストーカーされているのだとわかった。その場で男を撒くようにの手を掴んで走り回り、荒い息で礼を言うに、「恋人の振りをしないか」と提案した。
ちょうど俺自身、しつこい女子生徒に付け回されていたので、学校内引いては登下校を共にするだけでも、効果はあるだろうと思ったのだ。なによりこれならの護衛も出来る。俺が女子達からの途切れない告白に疲れ切っていたという事以上に、勿論の身を案じての事だった。
そしてこの「恋人の振り」が中々に効果的だったし、何よりと共に過ごす時間がとても楽だったのだ。もうこの時すでに俺の気持ちは固まっていた。俺が高校を卒業して大学に行っても関係は続いたし、一人暮らしを始めた俺の部屋にが泊りに来ることだってあった。手を出しても拒まれなかったし、もうこれは「振り」ではなくなったといって相違なかったはずなのに。
は高校卒業後、北海道の大学に行って、そのまま自然消滅、だ。俺自身警察学校に入って忙しくなったし、公安警察に配属された時にはきっと続いていたとしても俺から連絡を絶ってしまったかもしれない。だから、あの時は諦めた。
けれど、けれどもし。またが俺の前に現れたら。その時は。



「お前なら上手く演れるだろ?」
「まぁ演ったことありますからね……。でもその何でしたっけ、透くん? いい人作らないといけないんですか?」
「下手に女性を紹介されるのも、告白されるのも面倒だ。それに恋人がいると知った時に大体の女性がどうするかは実証済みだろ?」
「それは、まぁ……。でも私に大してメリットないじゃないですか。別にストーカーとかで困っているでもないですし」



絶対に掴まえると心に決めた。
の事だ。押せば流される。



「分かりました。全力で透くんの恋人演らせていただきます」
「助かるよ」



長いものに巻かれる質だからな。
勿論、今度は振りなんかで終わらせるつもりはない。





























「あれ、安室さん。今日はお休みじゃなかったんですか?」
「えぇ、そうなんですが。彼女がポアロに来てみたいと言ったので、ちょうどお昼時でしたし」
「そういえば、そちらの方はもしかして……」
「あぁ、紹介します。僕の恋人のさんです。ずっと遠距離だったんですが、つい先日、ようやくプロポーズを受け入れてくれて、こっちに呼んだんです」



腰に手を添えて少し前に押せば、は戸惑いながらも笑顔で挨拶をした。
思惑通り、蘭さんと園子さんがはしゃいでいる。



「安室さん! 恋人いたんならそう言ってくれればよかったじゃないですか!」
「すみません園子さん。ずっとプロポーズの返事を貰えてなくて、恥ずかしくて」
「お店に来てくれてるJK達、きっと落ち込みますね。けど安室さん、彼女さんを炎上から守ってあげなくちゃですよ!」
「えぇ勿論ですよ梓さん。が傷つくことはさせません」



笑顔で応対していれば、袖を引かれ、もの言いたげなと目を合わせる。



「(どういう事ですか!)」
「(後でな)」



いきなり婚約者にまで話が進んでいることに物申したいんだろうが、それだけで勿論終わらせないし、何ならこれは偽装なのだ。
文句はすべて終わった後にまとめて聞く。
それに、今は足元から突き刺さる驚愕の視線の主を躱さなくてはいけない。
彼はその小さな体ながら、俺に怖いと思わせる。俺が公安警察の潜入捜査官であることを知っているし、正直より今の俺の立場に詳しいだろう。好きなだけの正体を勘ぐればいいが、彼女を探ったところで何も出てこない。
何せは何一つ知らないのだから。

























「説明を求めます! 先輩!!」
「まぁ落ち着け。珈琲でも飲むか?」
「コーヒーは飲めません!」



今にも地団駄を踏んで暴れまわりそうなに甘いカフェオレを差し出せばいくらか静かになった。は昔から飲食が関わると大人しく言う事を聞く。食べ物につられて誘拐されはしないかと心配になる。



「俺の年齢知ってるか?」
「馬鹿にしてます? 29でしょう」
「結婚しててもおかしくないだろ」
「別に急がなくてもいい年齢でもあると思いますけどね」
「俺は、せっかくのチャンスを逃すつもりは無い。詳しい事は言えないが、後悔するのももう懲り懲りなんだ」
「……はぁ」



こいつはまた、途中で考えるのを放棄して。顔に「何言ってんだかさっぱり」と書いてある。
年齢云々なんかはどうだっていい。
大事なのは今目の前にが存在し、手を伸ばせば届く距離にいるという事だけだ。
本当は、潜入中の身でを囲う事が間違っているのだろう。任務の事、さらに言えばの身の安全を考えたって傍に置かない方がいいに決まっている。
だがしかし。



「まぁ、何だか面倒そうな事になりそうですし、話せないならそのままで結構なんですが……あまり思い詰めないで下さいね」
「お前はまた、そういう……」



何も知らないし知ろうともしないは、傍にいてくれるだけで呼吸が楽になる気がする。自分で望んで進んだ道とはいえ、偽名を使いいくつもの顔を使い分ける生活はそれなりに心身に負担が掛かっていることは自覚している。後悔はしていない。
ここでをまた手離せば、それは後悔に繋がることは明白だ。だから。



「あ、先輩。飲みきっちゃいました」
「……前みたいに名前で呼んで」
「零くん? あ、透くんか」
「俺と2人だけの時は零でいい。が、他では透だ」
「はーい」



そうやって能天気に過ごして、たまに俺の心を揺さぶってくる。
申し訳ないと思わないことはないが、それでも。



「とにかく、安室透と偽装結婚、いいな」
「乗り掛かった船ですし、まぁいいですけど……」
「ならいい。次会う時、協力してもらうにあたって必要な書類を持ってくるから、それにサインしてくれ」



後、印鑑と戸籍謄本と本人確認書類、と婚姻届けの提出に必要なものを言えば、は疑うこともなくそれらをメモに控えた。「戸籍謄本って用意時間かかりますよね」なんて疑う事すらしていない。それは俺にとって都合がいいけれど、心配にもなる。
1週間と準備期間を設けて、自分のスケジュールを確認する。新千歳空港への往復チケットの準備もしなくてはいけない。1週間内でどうにか時間を作らなければ。のご両親に挨拶に行かないといけない。



「スポーツカーって車内狭いイメージなんですけど、そうでもないんですね」
「気に入ったか?」
「いや別に。ふつーです。」
「はは、そうか」



車に興味はなくとも、嫌いではないらしい。今のところ俺の給料を一番使っているのはこの車だし、にも気に入ってもらえればと思ったんだが、まぁいいだろう。

























「偽装結婚、なんですよね?」
「あぁ」
「安室透の奥さん、を演ればいいんですよね」
「あぁ」



書いて、と婚姻届を差し出した。勿論、夫の欄には『降谷零』と自身の本名で記入済みだ。



「安室さんと偽装結婚ですよね?」
「あぁ、安室透とはな」
「じゃあコレはなんなんですか」
「俺との婚姻届だな」



混乱しているのか、受け取った婚姻届をひっくり返したりして確認しているに、思わず笑ってしまった。本当に、気付かなかったんだろうなぁ、と耳を揃えて並べられた必要書類たちを眺める。



、お前は本当に気付かなかったんだな。便利だから、都合がいいから、なんて理由だけで高校時代付き合い続けてたと本気で思ってたんだもんな」
「な、何を仰っているのか……」
「下心があったに決まってるだろ」



大体、都合がいいからとかそんな理由だけで一人暮らしの男の家に泊まったり手を出されて抵抗もしないなんて、は能天気だが馬鹿じゃない。自分の気持ちに鈍感すぎるというか無頓着でこんなに時間がかかってしまったけれど。
ほら書いて。とペンを渡せば素直に握った。



「いや待ってください、こんなの……」
「今書くか、後で書くか。時間の問題だ。それなら無為に時間を潰す必要も無いだろ」
「いやでも流石に親に何も言わずには!」
「ここ」



笑い声を何とか抑えながら婚姻届の証人欄を指さす。



「お義父さんに署名を頂いてきた」
「はぁ!?」
「サプライズでプロポーズしたいんです、と言ったら快く署名して下さったぞ」



何とかかんとか時間を作り北海道に飛んで、ご両親へ挨拶へ伺えば、お二人とも俺の事を覚えてくれていたらしく、大分歓迎された。柄にもなく「娘さんを僕に下さい」と緊張しながら頭を下げたけど、「どうぞどうぞ」とその反応に拍子抜けした。を口説き落とすよりご両親の説得の方が難しいかと思ってたのに。



、早く。この後の予定も詰まっているんだ」
「……どんな?」
「まず役所に行ってソレを提出。その後指輪買いに行く。時間が余ればドレス見に行くつもりだ」
「はぁ!?」
「職務上、式は厳しいから悪いが写真だけだが。お前のウェディングドレス姿も白無垢姿も見たいんだ」



これからの予定を思えばとても幸せだ。
本当は、最初は指輪も用意しようと思ったんだが、どうせならに選ばせようと考え直した。一生懸命に俺とのペアリングを選ぶの顔を眺めていたくなったから。
ウェディングドレス姿や白無垢姿を独り占めできるのもいい。結婚記念の写真を俺たちの分とのご両親に贈る用の2枚しか残せないが。



「……私、マリアベールに憧れてるんですけど」
「あぁ、好きなのを選べばいい」



ボールペンを何度も握りなおし丁寧に欄を埋めていく。疲れたといってぶらぶらさせている右手をほぐし終えたら婚姻届を出しに行こう。
善は急げ、だ。







END


-------------------------------
2018/05/18 加筆修正