26.reason-理性-






幾ら人の形をしていても、普通の人間は冷凍庫に入って何ともないなんてことは無い。珊瑚の海の寒い地域が出身だと言っていたし、寒さに強いのだろう。いっそ冷徹にも思えるほど温度を感じない滑らかな肌は深い闇の中でも美しく、しっかりと意識を保っていなければそのまま全てを持っていかれそうになる。彼はどこにいても人目を引くほど目立つし、端正な顔立ちや年齢にしては落ち着いた物腰はさらに人目を引いた。勿論、彼が人目を引く理由はそれだけではなかったけど。
だからこうして彼が抱きたいと望むのが自分だという事に疑問を持たないわけではないけど、それでも愛し気に名前を呼ばれ、切なそうに細められた瞳で見つめられる時、愛されているのだと感じることが出来た。愛情を試すなんて馬鹿な女になりたくないと思っているのだけど、この美しい男を誰にも渡したくないと思うくらいには、私は彼に溺れている。

「もうすぐ雪が降るね」
「寒いですか? 暖房を入れましょうか」
「ううん、そうじゃないの」

気遣うように発せられた言葉とは裏腹にスルリと衣服を剥ぐ手は緩める気配を見せない。心配はしてくれていると思いたいが、この部屋に来る前に「どうしたってやめる気はない」と宣言されている。それを確かに承諾して今ここに居る。
きっとどちらかといえばこの部屋は寒いのだろう。北の海に住んでいた彼の適温は私より大分低い。けれど火照った体にとっては涼しいと今は思っている。ただ単に、彼と出会ってからの時の流れる速さを思って出た言葉だった。

「もう一年経つんだな、って」
「一年が過ぎるのなんてあっという間でしたね。数年後、僕達はどうしているでしょうか?」

入学出来た学園で、周りの優秀な生徒に置いて行かれないよう、毎日追われるように必死だった。日々の事に精一杯で目先の事ばかりに捉われて、数年先の未来なんて考えてすらいなかった。二年後にはこの学園を出なくてはいけない。将来何になりたいかとか、卒業後の進路とか、漠然とした未来だけが広がっていても、安易に大丈夫だなんて思いこんでいた。今日進路希望調査用紙を配られた。二年生の今はまだ難しく考えなくても良いと先生は言ってくれていたけど、そんなに暢気でいられるほど馬鹿でもないつもりだった。けれどこうして改めて言われてぱっと思いつかない自分に、苦く笑うしかない。

「……どうなっているかな」
「おや、そこは僕のお嫁さん、だなんて言うべきところでは?」
「何で?」
「むしろ僕が問いたいですね。貴女を養うくらいの甲斐性は今までも十分見せてきたつもりですけど」
「……何言ってるの……」

恥ずかしそうに体をシーツに埋めた少女を見ながら、何故彼女は数年後に自分と一緒にいるビジョンを見てくれないのだろうか、と考える。
種族の違い、なんていうのは今はもう何も珍しくなくなった。ただ、認識の違いを感じることは多々あった。ヒトと人魚の感覚の違い。本能、理性。お互いの間に横たわっているその相互認識の乖離がいつか大きな亀裂になるのではないかと、日々恐れていることなど、きっと彼女は知らないだろう。急にたまらなく怖くなる。いつか彼女が詩文の腕の中から忽然といなくなるのではないかと。目の前で確かに、地に足を付け呼吸をし、僕に触れて。間違いなく彼女は存在しているのに。そんな時はいつも、どうしていいのかわからなくなって、きっと誰よりも自身を甘やかし受け入れてくれるに縋るのだろう。伸ばした腕を彼女が拒絶などするはずないと安心したくて、こうして夜自室に呼び出す。怒らず優しく触れてくれる彼女に甘えてばかりで、けれどそれが嬉しくて、少しだけ優越感に浸る。

「……ジェイド、どうしたの?」

ベッドに潜り込んでも何も行動を起こさないジェイドにどうしたのかと顔を出した。するとこちらをじっと見据えて口を結んだジェイドの姿が目に入って、何をそんなに難しい事を考えているのか、と不安になる。しかし、目が合うと意識をこちらに戻したジェイドはすみませんと呟いて頬を撫でた。

「何を考えていたの?」

身を起こすとぎしりとベッドが揺れて視界が一瞬ぶれる。既に下着だけとなった姿は月明かりに照らされると、淡い金色の中に浮かんで綺麗だ。
今は何も考えたくない。
感情のまま、まだ心配そうにこちらを見つめる少女の唇を塞いだ。
突然のキスには驚いたが、しかし拒絶することなくそれを受け入れる。制止したところでジェイドがやめるとは思わなかったし、何より好きな人からの口づけはどんなものでも嬉しい。
付き合い始めたばかりの頃の、まだ多少の遠慮はあったぎこちないキスはもう影も形も見られない。下着の上から胸を滑る手のひらも簡単に受け入れてしまっている。慣れというものは怖いものだな、なんて考えられる余裕があるくらい、もう何度もこうしてお互いの体温を確認しあっただろうか。

……」
「んっ、……ふ、ぅ」

呼吸すらままならない程の深いキスがジェイドの好みだった。はあまり良い顔をしないが、空気を求めて苦しそうに肩を上下させるの姿を見て、非常に興奮する。日々予定調和が崩されるようなハプニングを好む自分が、これほどまでに胸の高鳴りを覚え続けられる事柄はそう多くない。勿論、双子の片割れが何をしでかしてくれるのかという事も十分楽しませてもらえるけれど。
人の姿でいる時は、自分も同じく苦しい。こうして影を重ねてに触れる度にほの暗い感情が込み上げてくる。
愛しい。だから全てが欲しい。ただそれだけ。

「すみません、今日は加減出来る気がしません」
「え、ダメ。明日の一限、小テストあるし」
「ですから先に謝ったでしょう」
「ちょっとジェイド、……ってば」

下着を脱がせるのも面倒で、そのままたくし上げてもう何度も感じている肌のぬくもりを確認する。その度に抗議の声を漏らすにもう恥ずかしがる事も無いだろうと思わずにいられないが、それが組み敷かれた彼女に出来る精一杯の反抗だと思うと、殊更可愛いものだと思う。優しくしてやりたいという気持ちは勿論あるが、力で屈服させて思うように甚振りたいという歪んだ感情が無いわけじゃない。
彼女も知っているだろうが、これが人間誰でもが持っている負の感情だとつい最近知った。人魚の本能からくる残虐性だとばかり思っていた。「人間っぽい考えだね」と可笑しそうに笑ってくれた時、その時だけヒトと人魚の違いはそんなに無いんじゃないかと思ったものだ。
それでも今夜はきっと人魚らしい心の闇を開放してしまいそうだ。既に一方的に行為を進めているのがその表れだろう。肉付きの薄い腹を撫でる度に湧き上がる感情を、いつか彼女と共有したい。

「もう、よろしいでしょう?」
「ダメだ、って……てか、むり」

明日も学校だよ、というつぶやきは最後まで聞くことなく痛みを訴えるように漏れ出た声にかき消された。怒っているのか、泣いているのか、よくわからない。ただ迫りくる快楽に己を乱さぬように必死に堪えている様子だけが伝わってくる。
そういう態度がますますそそられるのだと、何度も教えてきたのに無意識にそれをするが悪いと考えるのはやはり自己中心的なんだろう。

、愛しています」

近い未来も遠い未来も、がいてくれればそれでいい、と思っていることはきっとまだ彼女に伝わっていないのだろう。ただ一言、「何年経っても一緒にいたい」と言ってくれればそれで満足できる。今はまだ。きっと遠くない未来、満足出来なくなりそうだが、そうやって欲がエスカレートしていくのはが甘やかしてくるのが悪い。
明日の朝彼女の機嫌を取るために、少し値の張る茶葉を出そう。たっぷりのミルクを添えて。コーヒーの方が好きだと言い張る彼女が、実はジェイドの淹れた紅茶を飲むときが一等穏やかな顔をしていると知っているのは今も昔も、そしてこれから先も自分ただ一人であるという優越感に浸りながら。