25.sway-揺蕩う-





もちろん、学内に接客業のバイト先などないので、学外に出なくてはならない。街に出れば、学生可のアルバイト募集は沢山あった。その中から短期間でも就業可能な店をピックアップし、店の雰囲気などを調査した結果、応募した店は個人経営の喫茶店だった。店の雰囲気や立地、雇用条件を加味して一番都合の良い所を選んだのであって、決してその店の看板メニューが『きのこのクリームパスタ』だったからではない。断じて。他にもたくさんのきのこ料理があるとか全く関係ないのである。
モストロ・ラウンジ発足を目の前にして、ジェイドには一つ解決しなくてはならない問題があった。これまでに給仕の仕事を経験したことがないのだ。
リストランテの息子であるアズールはそれなり以上に身に付いているが、アズール本人がラウンジで働く寮生たちを直接指導する時間はない。支配人として他に熟す業務もあるし、別の「お仕事」もある。フロイドは論外だ。彼自身の接客や仕事については、気分によってかなり変動するしそもそも指導をする立場というのものに向いていない。気分が乗れば、それなりにやるだろうが気分が乗らない時の方が多いだろう。それを当てにするのも楽しいが、間違いなくアズールを怒らせるので控えた方がいいだろう。だからこそ、アズールも最初からジェイドに向けて「寮生の指導は任せましたよ」と言ってきたのだから。
任せられたところで、そもそもの下地がない。だからジェイドは端的に「アルバイトをしよう」と思い至った。金銭に大した興味関心は無いので、ただひたすら接客の雰囲気を掴むためだけにジェイドはアルバイトに精を出していた。

「リーチ君、お疲れ様。彼女、待ってるよ」

店長の声を受け、バックヤードに目を向ける。少しだけ開いた扉の隙間から、このアルバイト先での同僚であり、ジェイドの接客指導も担っているの姿が見えた。

「やっぱり学生同士気が合うんだろうねぇ。青春時代を思い出すなぁ」

そのまま自身の過去について語りだしそうな店長に「お疲れ様です」と笑顔で返しバックヤードへ入った。は会話が聞こえていたのか、少し後ろめたそうに身を縮めていた。
。他校に通う2年生。ジェイドと同い年。ジェイドの喫茶店アルバイトの同僚。ただそれだけの関係だ。そんな彼女が何故ジェイドの彼女だと認識されているのか。事の発端は、ジェイドがアルバイトを初めて3日目の事だった。

「リーチ君、その、お願いがあるのだけど……」

喫茶店からそれ程離れていない地点に学園直通の転送場がある。元々は無かったのだが、アズールがモストロ・ラウンジ発足について学園長とやり取りしていた時に、ついでに丸め込んで作った。時は金なり、とアズールが言ったおかげでジェイドは学園とバイト先の行き来をとても容易に出来るようになった。そんな帰り道、に声を掛けられ引き留められた。
とは基本的にいつもシフトが被る。というのも、彼女が自身の指導係であるからだ。バイト人数もそれほど多くなく、学生の相手は学生にさせようという消去法で決まったのだとは笑って言っていたのを覚えている。仕事中は勿論、休憩中もよく話している。連絡先も交換しているが、そちらはあまり使うことは無かった。
そんな彼女がいきなり自分を呼び止めるとは一体何があっただろうか。もしや仕事について大事なことを伝え忘れていたとかだろうか。彼女の真面目で慎重な性格においてそのような事は滅多に考えられないのだが。働き始めて3日目の自分にシフトを代わってほしいとは言わないだろうし、何より先ほどまで一緒に休憩室にいたのだからその時に話せばいい。店内では言えない何かでもあるのだろうか。自分の制服の裾を掴む手はわずかに震えていた。「どうかいたしましたか?」と聞くと、はやはりというか、案の定言いにくそうに言葉を濁した。

「あーその……」
「どこか入りましょうか」

周囲を窺うような仕草に、喫茶店から離れたまた別の喫茶店を指さす。確かあそこはつい立てや仕切りで席が区切られている店だったはずだ。あまり学外から出たことは無いが、この辺一帯の喫茶店は一通り調べていた。は特に異議を申し立てることなく素直についてきた。
「私が呼び止めたんだし、ここは奢らせて」と彼女は財布からマドルを取り出した。素直にそれに甘えることにして。アイスティーを頼む。トレイに二人分の飲み物を載せて奥の席に座った。ジェイドの向かいに座ったは、アイスティーの水面を睨んでいたが、一口飲むと意を決したような表情で口を開いた。

「リーチ君、実は折り入ってお願いがあって……」
「えぇ」
「その……彼氏の振りをしてくれない……?」
「はい?」

想像もしていなかったの言葉に思わず素で声が出てしまった。けれど両手を合わせて頭を下げているの姿は真剣そのもので、冗談を言っている様には見えない。そもそもはこのような冗談を言う類の人間ではない。

「それは、一体……?」
「うん……だよね……。話せば長くなるんだけど」

前置きをした後、は先ほどまでの口の重さが取れたようでぽつぽつと事の経緯を話し出した。
発端はまだジェイドがアルバイトに入る前。アルバイトを終えたが帰宅しようと店を出たら、同じ学校に通う一つ上の先輩が待ち構えており、「付き合って欲しい」と声を掛けてきたのだそうだ。これまで話した事も無いその先輩の名前を知るはずもなく、当然の様には「すみません」と断った。しかしその先輩は「付き合っている人いるの?」「彼氏いないならお試しでもいいから付き合ってよ」「後悔させないからさ」等と言葉を重ねてきたそうだ。あまりにも話を聞いて貰えなくてうんざりしたは思わず「彼氏いるので!」と声高らかに言ってしまった……と。

「それで、僕にその嘘の彼氏役を演じて欲しい、ということでしょうか」
「そ、そうなの。うち共学だけど仲のいい男子もいないし、というか学内でお願いしたらその先輩にバレる可能性高くなるし……知り合いの中で誰も知らないとなるとリーチ君しか思い当たる人いなくて……バイト始めたばっかなのにこんな事頼むの申し訳ないんだけど……」

ふむ、とジェイドは考えるように顎に手を当てた。事前に一応の身辺についても調査してある。マジカメアカウントも特定済みだし(別に隠しているわけでもないようだが)、裏垢はそもそも持っていない。彼女が言うように、特別親しい異性の友人がいる気配もなかった。

「お願い、次のバイトの時にちょーっと話を合わせてくれるだけでいいから! あ、喫茶店の賄のキノコパスタ、リーチ君の分多くするし何ならお持ち帰り出来るようにするから!!」

向かい合うジェイドには手を合わせ頭を下げた。表情から察するに、相当深刻な悩みだったのだろう。彼女作る賄の出汁が聞いたキノコパスタは大変美味しいし、何よりいつも熱心に指導してもらっているのだ。まぁ少しくらいなら対価としてそんなに多くを支払わせることもないだろう、と珍しくオクタヴィネルの精神に基づく「慈悲の心」を額面通りに顕わにした。

「分かりました。引き受けましょう」
「え、いいの!」

ジェイドの返事が意外だったのか、は驚いたように目を丸くしてジェイドを見上げた。

「えぇ、少し話を合わせるだけでしょう? 日頃さんにはお世話になっていますし、僕も別に義理立てしなくてはいけないような存在があるわけでもありませんから」
「ほ、本当にありがとう……」

目から今にも涙を零しそうな程目を潤ませながらは何度も頭を下げた。心底安心したかのように胸を撫でおろすの様子に、少しだけ違和感を感じた。どうにも大げさに見える。

「その先輩、そんなに怖いのですか?」

こんなに真剣になる程の恐怖を植え付けるような存在なのだろうか、とふと気になってジェイドは口にした。

「うん、まぁ……。話した事も無ければ名前も知らない。むしろどうして私の事知っているのかも分からないのに、いきなり付き合ってくれ、なんて……。先輩に告白されてどうとも思わなかったんだけど、全然引いてくれないし何か怖いな、って。自意識過剰かなぁ」

自嘲気味に付け加えたは、表情こそ笑顔のままだったが、確かに引きつっていた。普段働いている時の笑顔がまるで蜃気楼のように思えるほどの作り笑いだった。実際の告白現場どころか、件の先輩の姿すら知らないジェイドに、どのような様子だったのかは分かりかねるが、まぁバイト終わりに店の前で出待ちされていて、しかもよく知りもしない人間だったとすればそれなりの恐怖を覚えるだろうことはジェイドにも想像が出来た。

「……その先輩も、彼氏がいると分かれば流石に諦めるでしょう」

気休めにしかならない言葉を吐いた事に、我ながら驚いた。表情にこそ出なかったので、が不審に思った様子はない。そのまま先輩についての情報を軽く聞き出し、次のバイトの予定を確認する。とは言ってもシフトは殆ど被っている。その先輩はどうやら毎週水曜日に近くのファストフードを利用しているらしく、その帰りに喫茶店で出待ちしているのだとか。次の水曜日にジェイドが「の彼氏」として先輩に話をすることになった。
そうして迎えた水曜日。先に着替えて待っていたが「外、やっぱり来てるみたい」と小声で裏口のドアを指さしながら言った。

「こいつが、彼氏?」
「は、はい。学校違うし、あまり頻繁に会えるわけじゃなかったんですけど……」
「えぇ、けれど中々彼女に会えないのも寂しくて。つい彼女と同じ喫茶店でアルバイトを始めたのです。少しでも一緒にいたくて」
「……ふぅん?」

件の先輩はジロジロと舐めるようにジェイドの姿を見つめている。最初に見た時はジェイドの身長の高さに怖気づいていたような素振りもあったが、ジェイドが穏やかに丁寧な口調で話し出すと、途端に余裕を取り戻した様だった。これまでに自分が「お話」してきた小魚さん達と似ている態度に、最初から無い興味は尽きている。

「そういうわけですので、彼女のことは諦めてください」
「本当に彼氏いたんだ。でまかせとかじゃなくて」
「え、えぇ……。なので……ごめんなさい」
「……わかったよ」

先輩は渋々といった雰囲気で軽く舌打ちをして去っていった。

「……これでもう、大丈夫……かな」

先輩があっさり引いてくれたので安心したのか、は安堵の表情を見せた。ジェイドは小さくなってく先輩の背中を見つめて、果たして本当に諦めただろうかと考える。ジェイドが思うに、これで諦めたとはどうも思えない。

「そうだといいのですが。このまま帰宅すると鉢合わせてしまうかもしれませんし、家まで送ります」
「え、いやいいよ。駅もそんなに遠くないし」
「ではせめて駅まで送らせてください。少なくとも改札口までは一緒にいた方が確実でしょう」
「確実、って……」
「僕にはどうも、先輩が貴女を本当に諦めたとは思えません。彼氏だと紹介して、その帰りに彼氏が送らないのは心証的にまず考えにくいでしょう?」
「確かに……」

裏口から駅へ向かって歩いていれば、ジェイドの目の端に気になるものが映った。

「おや」
「どうしたの?」

「それ」を見ないようにし、にも「そのままで」と声を掛ける。

「先輩、はすむかいのファストフード店にいます。ほぼ間違いなく僕達を見ていますね」
「え」
「偶然の可能性もありますが……急ぎましょうか」
「う、うん……」

は先ほどまで浮かべていた安堵の表情をまた曇らせて俯いた。怯えているのか、肩が震えているように見える。ジェイドは「失礼」と声を掛けて腰に手を添え、歩くスピードを少しだけ速めた。は何を言うでもなく、黙ってそれについてくる。素直なのは扱いやすいが、彼女は危機感が足りないのだな、とふと思った。ファストフード店から見えるであろう範囲を抜け、駅の改札口が見えてきたところで、は大きく息を吐いた。少し呼吸が上がっている。速く歩きすぎただろうか。

「大丈夫ですか?」
「うん……ちょっと、まだ心臓落ち着かないけど」

はもう一度大きく息を吐きだすと、今来たばかりの道を少しだけ振り返った。
先輩について聞いた時、いつもファストフード店に寄っているのだと聞いたから、きっとあの店が行きつけなのだろう。別に店にいること自体は不思議な事でもない。ただ、じっとこちらを観察するかのように凝視してきたあの視線は些か気になる。

「暫らく一緒に帰りましょうか」
「え? でも一度だけってお願いだったし……」

十中八九、あの先輩はこちらを見張るつもりであの店にいたのだろう。もしが一人になる瞬間を待っていたのだとしたら。そんな想像は幾らでも思い浮かぶ。彼女を一人で帰すにはどうにもリスキーだ。
何故こんなにも自分が彼女に対してここまで親身になっているのだろう、と思う頭もある。出会って数日だ。ここまで肩入れしてやる理由はないはずだ。けれど、何というか彼女が自分の与り知らぬところで怯えて過ごしているのは気分が悪いしつまらないな、と思う。何せであって数日で「恋人の振りをしてほしい」だなんて言ってくる女性、初めて出会ったのだ。中々予想外の展開を次から次へと運んできてくれる彼女が嫌いではない。キノコ料理も美味しいし。

「けれど、怖いのでしょう?」

ジェイドの言葉に、はぐっと言葉を詰まらせた。その表情からがあの先輩に怯えているのは明白だった。

「そりゃあ、怖いけど」
「では決まりですね」

何より彼女の恋人役は楽しい。自分とあの先輩をやらを比べて、迷いなく自分を選んでくるその感性をもっとよく知りたい。何せジェイドは、きちんと自分がどういった部類の人間であるかよく分かっている。きっと恐らくあの先輩の方が常識的には『マシ』であろうことも。

(選んだのは彼女ですしね)

ただ接客について学ぶだけのアルバイトの筈が、中々に楽しめそうだとジェイドは心なしか浮きだっていた。

「……ごめんね、巻き込んじゃって」
「別に構いませんよ。僕ももしさんに何かあったらと思うと気が気じゃありませんし」

ではまた明日、と改札を通るを見送った。
あの先輩は正直邪魔だからこのまま「お話」してしまおうか、と調べた先輩のあれそれを思い出しジェイドの口角が上がった。