24.wonderland-不思議の国-





「愛しています。僕の奥さんになってください」

跪いて私の左手をそっと取って手の甲に唇を落とす。つい数日前は「番になってください」と言っていた。人魚である彼は、恋人という概念を理解しない。恋人関係になることに何の意味があるのかと思っているようだった。ジェイドがどういう考えを持っているかについては私が口を出すところじゃないし、正しい正しくないがあるわけでもない。だから価値観の違いは後の破局に繋がるのだとか何とか言って追い返したら、今度はこちらの文化に合わせた方法を取ることにしたらしい。それでも照準が「結婚」から動いていないのだから全然変わっていない。まだ結婚できる年齢じゃないのだけど。それに何より。

「あのねジェイド君。何度も言うけど、私は穏やかな恋をして平和に生きたいからαなんていうリスクと付き合いたくないの」

ジェイド・リーチはどう見てもαだ。丹唇明眸、眉目秀麗。誰もが認める優秀な遺伝子。βである私に、本能的にαだのΩだのと判断する機能は備わっていないからフェロモンがどうたらって言われても分からない。けれど、周りの反応を見る限り十中八九彼はαなのだ。私は絶対にどうしてもαと付き合いたくない。
αとは、男女という性別の他に第二の性として三種類ある性別のうちの一つだ。身体機能や知能が高くなりやすい所謂エリートはαである可能性がある。第二の性の中でもαは数も少ないので、そんな頻繁にαと出会う事なんてない。だからなのか、αとの結婚に憧れるなんてこともある。一般的な感覚を持つとされるβにとっては玉の輿程度の価値観だ。それだけであるなら私もこんなに頑なにその人の人間性以前にαかどうかなんてのを気にしたりはしない。
第二の性は三種類。α、β、そしてΩ。Ωはαよりもさらに数が少ない。Ωの特徴としては発情する事だろう。当人の意思に関係なく強いフェロモンを撒き散らし、αやβに欲情する。そしてこのフェロモンにαが抗う事は相当に難しいとされている。そして何より、αとΩの間には「番」という特別な繋がりがある。これは本能的なもので通常の恋人関係や婚姻関係よりも強いものなのだそうだ。
例えば私がαと恋人だったとして、その恋人であるαが発情中のΩに出会ってしまったら恋人の私の事なんか忘れてΩの元に行ってしまう。これは想像なんかじゃない。現実に起こっている事だ。それが私の身にだけ起こらないなんてこと、あるはずないじゃないか。私はそんな惨めな思いはしたくない。たったそれだけの願い事を、この男は平気な顔で無碍にしようとしてくるのだ。

「またそれですか? 何度も言いますが、僕はαではありません。βです。ですから貴女の考えは杞憂なんですよ」

安心して下さい、と伸ばされる手を振り払う。いけしゃあしゃあとのたまうジェイドを睨みつけた。

「嘘ばっかり! この間Ωの子が番いにしてくれ、って言いに来てたじゃない」
「あぁ、あれは勘違いでしょう。フロイドがαなので間違われる方が多いのですよ。僕はβです」
「そんなまさか。βの私だって知ってる。αやΩはフェロモンで分かるんだ、って。Ωの子がわざわざβに番になってくれなんて言うわけないじゃない」
「おやおや、それは偏見では? Ωだってαでない人を好きになることはあるでしょう? まぁ僕は貴女としか番いたくないのでどんな方に申し込まれても貴女以外はお断りしますが」
「βに番なんて制度ない!」
「僕の奥さんという意味です。αだとかβだとか、そんなものから離れて考えてみてはどうでしょう。僕は貴女が好きなんです。この気持ちに対して貴女はいつもβだからとか価値観がどうとか言って気持ちを応えてくださらないじゃないですか」
「それは……」

痛い所を突かれて言葉に詰まる。言われなくても分かっていた。それらしい言い訳を並べ立てて逃げていることくらい。少なくともジェイドは気持ちを伝えることに関して物凄く誠実だ。言葉が少し不穏である事もあるけど、正面切って堂々としている。それに比べて私は全てをなあなあに中途半端な態度で逃げてばかり。好きとも嫌いとも一度も言ったことがない。ただ言い訳やジェイドの荒をつついて向こうから諦めるのを待っている。いや、諦めるのを待っているのではない。何度となく逃げても諦めずに追いかけてきてくれるジェイドの事を、きっとどこか嬉しいと思っているのだ。だってジェイドがいくら自分をβだと言い張ろうが、どう考えても彼はαだ。αが本能に逆らってβである私にしつこく求愛してくるなんてまるで夢みたいだ。今はこれと思うΩがいないだけかもしれないけど、別にβだから劇的な恋愛をしたくないというわけでもない。そういったものに勿論憧れはある。
ただ、そんなミーハーな気持ちでジェイドに向き合い応えていいものか。応えたところでαとΩ以上の特別な繋がりを持てるわけじゃない。番たるΩが現れれば私は負ける。私に目もくれずΩのところへ行ってしまうジェイドを見送らなくてはいけない。そういう未来がほぼ確実に待っているはずだ。きっとジェイドにこれを言ったところで考えすぎだとか、そんなことはないと言うだろうけど、どうやってそれを信じればいいのか。私には分からない。

「付き合えない、これが私の答えだよ。ずっと言ってるでしょ」
「あ、待ってください!」

これ以上ジェイドの前に立っていられなくなって、吐き捨てるように言葉を投げつけて走った。後ろでジェイドが引き留めるように声を上げていたが無視をした。結局、私は逃げている。
ジェイドの言うようにただジェイドをどう思うかで判断して付き合ったとして、私は幸せになれるのだろうか。今はいい。今はジェイドが私を好きだと言ってくれている。その間はいいだろう。けれど、例えばジェイドが私の項を噛んだところで何も残らない。好きだとか結婚しようだとか、それは全て口約束でしかない。それを信じて縋りついて、いざジェイドがΩを見つけてしまったら……怖くてたまらない。
悶々と考えながら廊下を歩いていると、少し先に蹲っている人がいた。こんな人気のないところで体調を崩してしまったのだろうか。ここから保健室は少し遠い。私では運んであげることは出来ないけど、肩を貸すことくらいは出来るだろう。

「あの、大丈夫ですか?」

声を掛けた男子生徒は、肩で大きく息をしていて水分体調が悪そうだ。こちらの問いかけにもまともな言葉が返ってこない。

「歩けそうですか? 肩貸しますから保健室に行きましょう」

そんなに身長も高くなさそうだし重くもなさそうだったから、何だったら魔法で運んであげてもいい。そう思って伸ばした手をとても強く掴まれた。

「……キミ、βなんだ……?」

え、と身体を固くこわばらせた。掴まれている手首がギリギリと締められる。息も絶え絶えにこちらを見た生徒は、目も潤んで顔も赤い。風邪かと思ったけど、βかと聞かれて思い当たった。もしかしたら彼はΩなのではないだろうか、と。きっと私が大して感じ取れていないだけで彼からは発情期特有のフェロモンがでているのかもしれない。

「うん、βなの。ね、歩けなさそうなら魔法で運ぼうか。ちょっと低空飛行になるけど」
「……αに、媚を売るくらいなら……」
「え、何て?」

浮遊魔法は使えるけど長い時間使うのは初めてだから、魔力節約で高度は上げられないなと保健室までの最短ルートを考えていたら、何事かを言っていたらしい男子生徒の言葉を聞き逃した。もう一度言ってくれないかと聞きなおしたら、さっきまで蹲って体調悪そうにしていたとは思えないくらいの強い力で床に引き倒された。背中を強く打ち付けてとても痛い。

「βだとしても、発情期真っ最中のΩの傍にいるのは危機感がなさすぎるんじゃない?」
「ちょ、ちょっと」
「辛いんだ……ちょっと助けてよ」

そう言って顔を近づけてくる生徒に、このままじゃマズい、と固く目を瞑る。けれどすぐに「ぎゃあっ」とか悲鳴が聞こえて、圧し掛かっていた体が吹き飛んだ。恐る恐る目を開けると、長い脚が蹴飛ばしたままの形で止まっている。「……ジェイド?」足の持ち主を見やると、自分が蹴り飛ばした生徒を強く睨みつけているジェイドがいた。

「僕の番に、そのような汚らしい手で触れないでください」

引き倒されたままだった体をジェイドに起こされて、そのまま腕の中に閉じ込められた。興奮しているのか荒い息遣いが上から聞こえる。そうだ、今ここには発情中のΩがいる。このΩのフェロモンに反抗するのはどんなに理性的なαでも難しいのだとか。ならばジェイドは……。

「早くここを離れましょう」
「え、でもあの人……」
「アレは貴女をあろうことか襲おうとしたのですよ。あのままにしておいたって誰も同情しません。行きましょう」

瞬く間に抱き上げられて、ジェイドは一切振り返ることなく私を抱えたまま足早に廊下を引き返していった。

「分かりますか? 僕は今とても腹立たしい。貴女を追いかけていたら、どこの馬の骨とも知れない雑魚に押し倒されている光景を見てしまいました。僕はショックで寝込んでしまいそうです」
「いや、好きでああなった訳じゃ……」
「好きでああなったのであればあの男をこの世から消さなくてはなりません。ほら、手首が赤くなっている。他にあの男に触れられた場所は? どうしてやりましょうね、あの男。僕の奥さんに手を出すだなんて死ぬ覚悟があるんでしょう」
「……奥さんじゃない」

発情中のΩに、ジェイドは目もくれず私を抱えた。ジェイドは本当にβなんだろうか。いやでもまさかそんなはずはない。じゃあ発情期のΩだと私が勘違いしたのだろうか。

「いいえ。もう駄目です。ゆっくり待とうと思っていましたが、あんなもの見せられて黙っていられるほど僕は我慢強くないんです。貴女から好きだと言ってほしかったのですが……全て些事でしょう」

いつの間にか鏡舎を過ぎていたのか、海の中にある寮をジェイドは随分速足で進んでいる。脇目もふらず、とある扉の前について乱暴にこじ開けた。掃除はされているが、まるで生活感のない部屋だった。

「僕は証明したでしょう? これで貴女がαだとかβだとか気にする謂れは無くなりましたね。価値観の違いについては、納得できる部分もあります。けれどそれはこれからお互い歩み寄ってすり合わせていきましょう。僕は陸でも海でも、貴女が居てくれるなら構いませんから」
「ま、待って」

ゆっくり降ろされた先は整えられたベッドの上で、そのままジェイドは私の身体から手を離すことなく覆いかぶさってくる。

「随分待ちました。これ以上待つことは出来ません」

上気した顔に荒い呼吸、依然興奮状態は続いているというか、むしろ悪化しているように見えた。まず間違いなく先程のΩのフェロモンに中てられているに違いない。

「……ジェイド、やっぱりαなんだよね?」
「僕は、β、です」

もう黙って、と大きく口を開けたジェイドの鋭い牙が見えたので黙って目を閉じた。