22.exist-存在する-
真っ青な顔をして頭を下げ続けるオクタヴィネル寮生に、元から無いが怒ろうという気持ちも文句を言ってやろうなんて気も起らない。きっと彼は客に飲み物を零してしまったことよりも、これから指導されるであろう未来に怯えているに違いない。このラウンジの指導を取り仕切っているリーチ兄弟のどちらに当たったとしてもきっとこちらが想像する以上の仕置きをされるのだろうと思うと、被害に遭ったのはこちらの筈なのに未だ頭を下げている彼に同情してしまう。
「お客様、大変申し訳ございません」
可哀想に、謝罪にやってきたジェイド・リーチを見て寮生さんの顔色は真っ青を通り越して今や土気色だ。飲み物を零されたとはいえ、制服が少し濡れたくらいだし透明のサイダーだから色シミもほとんどない。少しべた付くが、さっさと帰ってシャワーを浴びれば済む話で。だからそんなに怯えたりするような事じゃないと思うのだ。何度も「気にしなくていい」と言っているのにこちらの話は全く聞こえていないのか、ガクブルと震えるだけで、正直責任者であるジェイドが来てくれて助かったな、と思ってしまった。ジェイドが来て安心するなんてこと、滅多にないから中々レアな体験だ。
差し出された新しいおしぼりに、そういえばずっと謝ってばかりで零したままの状態だったなと思い当たった。これは怒られてしまうかもな、とやっぱり寮生さんに同情する。
「本当に気にしなくていいから。けれど流石に着替えたいし、今日はこれで」
「お召し替えを用意いたします。あぁそうだ、シャワーもお使いいただけますよ。勿論、今回のお代はいりません」
帰りますね、と言おうとしたところ、申し訳なさそうな顔から一変し、ニッコリ笑ったジェイドが手を取ったので、それに引かれて席を立った。ジェイドからの提案は、こちらの返事を聞いたものではないらしい。もう決定事項のようだった。ただしバックヤードに連れられる途中、ジェイドは振り返って眉を下げ本当に申し訳なさそうな顔をしながら「実は」と口を開いた。
「今、小さいサイズの服が出払っておりまして……大変申し訳ないのですが僕の運動着でよろしいですか?」
「いいよ別に。乾かすまでそんなに時間かからないでしょ?」
「そうですね……貴女がシャワーを浴びて紅茶を飲み終わる頃にはご用意できると思います」
「紅茶?」
「えぇ、はい。お詫びの気持ちです。サービスですよ。前に美味しいと言ってくださったでしょう?」
「うん。でも本当にそこまでしてもらわなくてもいいのに。あのスタッフさんも、そんなに責めないで上げてね」
「何とお優しいんでしょう。貴女がそういうのなら、厳しい罰は与えませんが……」
案内されたのは、オクタヴィネル寮に併設されている共用シャワールームの内の一つだ。オクタヴィネル寮のシャワー室はどの寮と比べても格段に広く数も多い。案内してくれたジェイドもそうらしいが、人魚が多く、本来の姿になると4m5m以上の体躯を持った者がそれなりにいるから結果として広くせざるを得ないらしい。海の中に寮があると言っても、人間として過ごしていると湯に当たり浸かるという至福の娯楽にハマってしまうらしい。年に何度ものぼせて保健室に運ばれる人魚が必ずいるのだと聞いた事がある。というか、このジェイドも一度のぼせて運ばれているはずだ。
「この時間は誰もここのシャワールームを使いませんが、万が一もありますので僕はここで待っています。着替えは用意しておきますから、濡れた制服は緑のカゴの中に入れておいてください」
「ありがと」
「いいえ、こちら側のミスですから」
そう言ってジェイドはマジカルペンを取り出して軽く振った。脱衣室の白いカゴの中に運動着が現れる。さっき言っていたジェイドのものだろう。もう一度お礼を言ってドアを閉め、鍵をかけた。
何度か使った事があるが、本当にここは広い。この広さで温度が下がらないのは、魔法で管理しているのだろうか。それとも魔法石に溜めているのか、はたまた妖精の力を借りているのか。
シャワーのコックを捻りながら、先ほどの寮生の怯えようを思い出す。念を押す様にあまり責めてやるなと言ったけど、何だか響いていないような回答だった。何となく燻ったままの気持ちも一緒に流そうと頭から勢い良くシャワーを浴びて、別に本格的にシャワーを浴びなくてもいいんだったと思いだした。
青いカゴに大量に入っているタオルを、使っていいのだろうと一つ取って体を拭く。元が人魚、という生徒は衣服の存在に中々馴染まない。というより慣れないらしい。しかしながら肌触りだとか着心地というものに、下手したらポムフィオーレ寮生より気遣っているのではないかと思うくらいタオルにしっかり柔軟剤が使われていてめちゃくちゃふわふわしている。固いタオルで擦ったら鱗が剥がれると思っているのだろうか。というか人魚の姿でタオル使わないじゃん、と思ったけど言わないことにした。人型取っている時でもきっと、人魚の姿でいる時の感覚で行動してしまうこともあるのだろうきっと。生粋の人間である私にそのような感覚はわからない。
用意してくれた運動着を着ると、当たり前の様に丈が合わない。会わないどころじゃない。ただのインナーが短めのワンピースになるし、運動着のパンツは半ズボンに切り替えても余裕で膝関節が隠れる。どれだけ足が長いんだよ、と思わず悪態を付きたくなった。
「お待たせ」
「いいえ。やはり随分サイズが大きいですね……」
壁にもたれ掛かることなくしっかり背筋を伸ばして立っていたジェイドに迎えられ、腕まくりしても落ちてくるインナーの袖をたくし上げられた。「ピンなどで留めましょうか」と言うのを断る。数時間も着ないものだ。そこまでする必要はないだろう。
「こうしてみると……体格差を実感させられますね」
「私は常に実感しているけどね。ジェイドと話していると首が痛くなるもの」
「それはそれは申し訳ありません。今度から抱えて差し上げましょうか?」
「そこは屈んでくれるんじゃないの」
しみじみと私の姿を見て言うジェイドは、何故か嬉しそうだった。エスコートされるようにジェイドの部屋に入らされる。機嫌が良さそうに紅茶の用意をするジェイドに、ジャムを入れて、と要望を出せば二つ返事で了承の声が返ってきた。