21.greed-欲望-
オクタヴィネル寮にて副寮長を務めるジェイド・リーチは非常に好奇心旺盛な学生だ。好奇心の名のもとに陸での生活を非常に楽しんでいる。
そんな彼が今、もっぱら気になっている女子がいた。正確に言えば、その女子の唇が美味しいのかどうかが気になって仕方がなかった。
入学当初より、彼女の事は知っていた。というより非常に目を引く生徒であったから、割と最初の方に彼女について情報を集めていた。
・。品行方正の優等生。ミドルスクールまでの評判だけでも良いものばかり。ただ初見だと倦厭されがちだった。何故なら彼女の唇はまるで毒を塗ったかのように紫色に染められていたのだ。
入学式の日、自分より先に鏡の前に立った彼女をよく覚えている。魔法の鏡に告げられた寮はポムフィオーレで、事前に調べていた寮の特性を鑑みると彼女にピッタリだと納得した。誰もが彼女に注目している、とそう感じた。初見こそその毒々しい唇に目がいくが、そもそも彼女自身も大変に麗しい。基本的に整っている顔立ちが多い人魚である自分でさえそう思うのだから、きっと人間達だって自分が思っている以上に彼女を理想的な存在だと思っていることだろう。
幸いにも彼女と同じクラスになったので、陸生活の楽しみが増えたと喜んだ。
陸には興味深いものが本当にたくさんあった。海にはない植物や食べ物、とくに菌糸類は興味深かった。わざわざ尾鰭を二つに割り、歩行練習を重ねてまで陸に上がった甲斐があった、と非常に満足していた。そうして興味を引かれるものの多い陸での生活を楽しみつつ慣れた頃、視線を向けられていることに気付いた。それは海で良く向けられていた怯えや畏怖の視線ではなく、恋情のものだと知り驚いた。まさか自分にそのような視線を向けてくる雌がいようとは。本当に陸は面白い、と果たしてどんな人間かと探ってみれば、その視線の持ち主は自身も入学当初から気になっていた『彼女』――・だった。とても興味深く早くから情報を集めていた彼女だったけれど、学内に彼女の地元の友人はいなかったし、マジカメアカウントを所持してもおらず、中々欲しい情報を手に入れられずにいたのだ。もちろん学園内で彼女に友人はいたけれど、その友人達が知っていることは既にジェイドも知っていた。弱みでも何でもいいから自分しか知らないことが知りたい、と思っていた所だった。そんなところにまさか向こうからアクションを起こしてくれるなんて。ジェイドはこれ以上なく喜んだ。どうやって彼女にコンタクトを取るか……そんな事を考えていた時だった。
顔を赤く染めて意を決したように彼女が自分に近づいてきた。毒々しい唇が開く。その唇はどんな味がするのだろう、ふとそう思った。
「何その本、きのこ? 子供向けの図鑑じゃない。信じられない」
驚いた。まさしく毒だった。ファーストコンタクトで正面切って罵倒されたのは初めてで、ジェイドは面喰ってしまう。
少し上ずった声がその高慢な言葉に拍車をかけていた。
調べていた情報によれば、彼女はこんな毒を吐くような人間じゃなかったはずだ。それが何故。まさか好意を向けられていると勘違いしただろうか。それにしては随分と熱烈な秋波を送られていたように思うのだが。内心首を傾げながら毒を吐きだした彼女の顔を見ると、何故か随分とショックを受けたような顔をしていた。それを見て、合点がいった。
「そうですか」
彼女が言うように子供向けのきのこ図鑑を閉じて、困ったような笑顔を貼り付け席を立ち、今だ呆然としている彼女の横をすり抜けて教室を出た。
稚魚の中には、好きな相手に意地悪をしてしまう者がいる。人間にもきっとそのような性質を持つ子供がいるだろう。恐らく彼女はその性質を持っているのだ。愚かなことだと思う。思慕や恋情といった特別な感情は時として人を際限なく愚かにしてしまう。教科書に載るような歴史だって、傾国やら心中やら多少の脚色はあれど、重大な出来事として扱われるのだから。海でも陸でも変わらない。
思わぬことを言ったというのがありありと表情に表れていた彼女を置き去りにしたその次の日から、彼女は毎日毎日ジェイドに突っかかってくるようになった。他人など眼中にないと言わんばかりに、自分の品位を下げるような罵詈雑言を繰り返す。新しくできた友人達は皆離れていってしまっていた。ジェイドに近づく女子生徒を睥睨し、近づかないように威嚇する。彼女はどんどん孤立していくが何も気にしていないようだった。
ジェイドはもう堪らなかった。好意を抱いているであろう異性に、日を跨いでも継続して毒に塗れた激情をぶつけられる。どんなに聞くに堪えない罵詈雑言だろうともこれは彼女の求愛行動なのだ。きっと彼女は自分を傷つけてやろうと意地になっているのだ。陸に上がってこんなにも面白い女性に出会えるなんて思ってもみなかった。そして都合のいい事に、彼女の目にはジェイドしか映っていない。ジェイドしか存在しない世界に生きているのだ。こんなにも面白くて愚かしくして可愛らしい雌にはもうきっと出会えないに違いない。この時点でもうジェイドは、彼女は自分のものだと思っていた。
彼女がジェイドに気を病むほど執着し、恋しくて仕方がない男に毒を吐いては自ら自滅の道を突き進む様子を眺めているのがとても楽しかった。だから邪魔をしてくる生徒は容赦なく黙らせていた。自分に寄ってくる有象無象の雌は彼女が排除してくれるのでそれに任せていた。彼女が排除するたびに愛されていると実感できるので嬉しかった。彼女の愛は病的だが、ジェイドも十分病的な愛を彼女に向けていた。それを勿論ジェイドは自覚していた。
自覚していたからこそ、無防備に寄ってくる彼女に不埒な欲が湧いた。いつだって自分に毒という愛を吐きだす、毒に塗れた唇。どれだけ柔らくて、どんな味がするのか、気になって仕方がなかった。では手を出すかといえば、ジェイドは一切彼女に触れなかった。ジェイドが手を出したら彼女はどんな反応をするのか、とても興味はあったけれど、それよりも自分が吐き出す毒に溺れて息継ぎも出来なくなっている彼女を眺めているのが好きだったし、毒を吐く度に酷く後悔し苦悩する彼女の胸の内を想像するだけで、この上なく高揚感に包まれるのだ。これらをみすみすと手放すのが惜しいと思った。いつか彼女が心の奥底で渇望しているであろう明確な関係になる。その時まで新しい楽しみを取っておこう、なんて考えてすらいた。
飽きもせずどっぷりと彼女の吐きだす毒に浸かって彼女を愛で続けるジェイドを、双子の片割れや幼馴染なんかは呆れかえっていたが、彼女との楽しい毒生活に口出しされないのであればどうでもよかった。勿論、「ほどほどにしろ」と苦言を呈されることはあったが、あまりジェイドには響かなかった。ある意味恋だの愛だのに現を抜かしていたのだが、ジェイドも彼女も学業には何一つ影響がなかったし、ジェイドに至っては日常生活やアズールの計画に支障が出ることもなかったのである。
しかしながら(ジェイドだけが)楽しい生活は突然終わりを迎えた。
無事学内にモストロ・ラウンジをオープンし、そこで給仕の仕事をするようになった。ジェイドがいる日はもちろんがやってくる。相変わらず毒を吐き続ける彼女の傍に、常にジェイドがいられるわけでもない。ふとした時に彼女に話しかける男がいるので、おちおち一人に出来ない。もちろん蹴散らすことも出来るのだが、オープンしたばかりのラウンジであまり派手なことをするとアズールにどんな面倒を押し付けられるか分かったものじゃない。
だからジェイドは彼女がやってくると、アズールから書類仕事を引き継いで事務室に籠った。そこでなら彼女と二人きり、いくらでも彼女を愛でられる。
その日もジェイドはいつもと同じように毒を吐き続ける彼女を連れて事務室で経理をまとめていた。
ずっとソファに座って毒を吐き続けていた彼女が突然立ち上がり、取り乱したかのように頭を抱えると、ジェイドの目の前で意識を失ったのだ。