20.utopia-理想郷-





ジェイドはそれはもう、幸福の絶頂にいた。天にも昇る心地だとかよく表現されるが、魚の自分には一生分からない価値観だと思っていたけれどお詫びして訂正する。今なら飛行術でいくらでもPERFECTを取れる。
ずっと好きだった子が告白してくれた。それも小さな体を一生懸命震わせてまで。
とてもとても可愛らしかった。ぷるぷる震える体をそのまま腕の中に抱き寄せたかった。時間さえ許せば。
今にも歌い踊りだしそうなほど上機嫌なオクタヴィネル寮副寮長に、ラウンジのスタッフは戦々恐々としていた。ジェイドの機嫌が良い時は碌なことがない、オクタヴィネル寮生の中では暗黙の了解になっていた。今日の賄がキノコ料理、程度であればまだマシだ。だがこれから大口の『顧客』が来るとか、双子の片割れであるフロイドが『予想外の面白い事』をした後であるとか……これまでに起こった散々な出来事の数々に付随するようにジェイドの笑顔が脳裏に焼き付いているのだ。
そんな怯える寮生に見向きもせず、ジェイドは上機嫌で給仕の仕事をこなしていた。
もちろん、頭の中は仕事終了後の事で一杯だ。まずはすぐに連絡を入れなくては。叶うなら電話で声を聞きたいが、流石に急ぎすぎだろうか。あぁそうだ、明日の朝彼女の寮まで迎えに行って一緒に登校したい。話したいことが沢山あるがどれから話せば彼女は喜んだり楽しんでくれるだろうか。やっぱりラウンジに一緒に来てもらえばよかった。あの時考えたのだ。このまま同伴(なんてサービスは行っていないが)してモストロ・ラウンジに来てもらって、閉店まで待たせてしまうがその後特別なデザートを用意しようか、とか。ただ今日がいつも客入りの多くなる曜日だったから、回転率を重視するアズールに小言を言われてしまうかもしれないと思ったのだ。ジェイドはあまり気にしないが、人の良い彼女はきっとアズールの言葉を気にして今後の付き合いに支障が出てしまうかもしれない。具体的に言えば、モストロ・ラウンジやオクタヴィネル寮に来ようという気持ちを無くしてしまうかもしれない、と。

「どうしたんですジェイド。そんな薄気味悪い笑顔を浮かべて……スタッフに示しがつきません」
「ふふふっ、こんなにも愛嬌のある笑顔だというのに、薄気味悪いだなんてそんな……息を吐くように僕を貶める言葉が出てくるなんて感服致しました」
「何なんだ一体……。機嫌がいいのかと思ってたが違ったのか?」
「いいえ? ふふ、僕は今最高に幸せだと言い切れますね。氷柱キノコの栽培に成功した時よりも格段に嬉しいです」
「はぁ? いやいい、言わなくていいです。とにかく、今は業務中なんですからそのにやけた顔を引っ込めて営業スマイルでお願いしますね」

ラウンジの支配人であるアズールは、どうにもシフトに入っている寮生の動きがぎこちないと感じ、何か原因があるのかと思って出てみれば。通常よりも笑顔を増幅の幅が激しいジェイドがいた。あんなにも笑顔でいるジェイドに関わるのは経験上よろしくない、とアズールはよく分かっていた。けれどスタッフのパフォーマンスの質が下がるのをただ黙って見ているわけにもいかず、嫌々ながらジェイドに声を掛けた。もしここにフロイドがいればフロイドに特攻を掛けさせたのに。残念ながらフロイドはバスケ部に顔を出している。
アズールに注意を受けたジェイドは、勿論そんな注意が響くはずもなくただひたすら閉店後に彼女に送るメッセージについて頭を一杯にしていた。やはり登下校は一緒にしたい。寮まで迎えに行こうか。それにラウンジで仕事が終わるのを待っていてもらうだなんてそんな……とても恋人っぽい。恥ずかしそうにはにかむ彼女が小さくジェイドに手を振って口パクで「頑張って」と言ってくれるところまでしっかり想像した。そう、今日のラウンジ出勤前もとても良かった。「頑張ってね」と彼女が見送ってくれたのだから。彼女がくれた応援の言葉でそこまでも頑張れる。もっと付き合いが深くなれば「行ってらっしゃい」とか「おかえりなさい」を言ってほしい。これはもう結婚している、なんてジェイドの頭は本当に花畑になっていた。それでも仕事では一切ミスをしていない。

嬉しくてしょうがない。まさかここまで上手くいくとは思わなかった。上手くいきすぎて疑いたいくらいだ。
そう。ジェイドは彼女の告白が嘘であることを知っている。嘘で構わないから、とにかく言質が欲しかった。クラスも違えば寮も違う。中々すれ違う事もない生活に、もううんざりだったのだ。いつ彼女がどこの馬の骨とも知れない雑魚に取って食われるか分かったものじゃない。どうしたものかと悩んでいた時に、アズールに相談があるのだと言ってきた生徒がいた。その生徒には見覚えがあった。彼女の友人の一人だったからだ。すぐにその友人を利用することを思いついた。相談事の対価としてその友人を使い、彼女が僕に「好き」だと言ってくるシチュエーションを作った。まさか罰ゲームで告白してくれるとは思っていなかったが、随分とあの友人は上手くやったのだろう。おかげで録音した音声を編集する必要もなくなった。
後はもう、彼女を逃がさなければいいだけだ。それなりに自信はあったので。
その内彼女は諦めて僕を好きになるだろう。いくらでも彼女にとって居心地の良い空間を演出するから安心して僕を好きになるといい。楽しいであろう彼女との生活を夢見てジェイドはますます笑顔が深まった。
次の日の朝、寮まで迎えに行き彼女の手を取った。その華奢な手を自分の手で包んでいられる幸福に浸る。昨夜業務終了後に送ったメッセージは簡潔に明日迎えに行く旨を伝えたものだ。赴くままに文章を綴るととても長くなる。これから幾らでも彼女と話すことが出来るのだから、そう急ぐ必要はないと思ったのだ。
何度も口を開いては何かを言うのをやめる彼女に、目を細める。罰ゲームだともし言ってきたら弄んでいたのかとか言って泣いて彼女の同情を引こう。専らそういうのに弱い人だから。質の悪い男に引っかかって泣きを見ることがなくて良かったですよね、と心の中でジェイドは微笑んだ。