9.jesus-くそ!-
腕というのは存外重いものなのだと最近知った。
胸の上の重みと少しの息苦しさを感じて目を覚ますのが、ここ最近の朝の迎え方になりつつある。カーテンの隙間から光が漏れて部屋の中を仄かに明るくしている。白いがしなやかな筋肉がしっかりついている腕がタオルケットの上から乗っている。
この部屋は10桁の暗証番号と指紋認証によってロックを掛けているし、暗証番号は3時間ごとに変更されるという私でも開けるのに些か面倒な程厳重だ。一生徒の部屋に掛けるようなセキュリティレベルではない。こんなに面倒な鍵を用意したのも、全てこの腕の持ち主のせいである。
「不法侵入って何度言えば分かってもらえるんだろう……」
力の入っていない腕は重いけど避けられないことは無い。
ジェイドは毎日毎日飽きもせず、勝手にこの部屋に入ってきて勝手に人が寝ているベッドに入りこんでくるのだ。何度も何度も部屋のセキュリティを突破するなというか何で突破できるんだと言ってもジェイドは聞く耳を持っていなかった。ただニッコリと笑って「では貴女が僕の部屋に来てくれますか?」とだけ繰り返す。ジェイドの部屋に行くという選択肢は絶対に無い。あるわけない。絶対に行きたくない。
「んっ……。もう起きたんですか? 今日は休みでしょう、まだ寝ていませんか」
「休みじゃないよ普通に水曜日だよ勝手に休みにしないで」
「いいじゃありませんか。たまにはゆっくり過ごしましょう?」
「却下。後いい加減腕離して」
隣で寝ていたジェイドがもぞもぞと動き始めたかと思えば、長い腕が腰に巻き付いてきた。そのまま締め付けられる。普段の生活態度からは想像できないくらい、ジェイドの寝起きは悪い。出来るだけ長い時間寝ていたいとベッドから出ることを嫌がる。自分一人それで午前の授業をサボるのは好きにすればいいが、人を巻き込もうとしないでほしい。
いつまでも腰に巻き付いて離れない腕を叩く。いつまで経っても身支度が始められない。食堂に人が少ない時間帯に行かないといけないのだ。楽だから食堂をいつも利用しているけど、そろそろ寮のキッチンを使用して自炊することを視野に入れた方がいいかもしれない。一人で食堂に行くと「えーあの子一人で食べてるー」「ちょーぼっちじゃーん」って後ろ指指されて笑われている気がするし、最近はジェイドがベッタリと付いてくるから「うわっジェイド・リーチだ」「あの子何したんだ可哀想に……」だとか言われている気がする。そうやってひそひそとされるのが一番メンタルに来るのだ。
「昨日の放課後、食堂に僕の育てたキノコを卸したばかりなんです。もしかしたら今日の朝にもキノコ料理が提供されるかもしれません」
「またキノコのリゾット? パスタの方がいいな……」
「モストロ・ラウンジではキノコのクリームパスタを提供していますよ」
「絶対に行かない」
「おやおや、では僕がお作りしてお持ちしましょうか」
「……それなら食べる、けど。時間ないからまずは腕離して。後部屋から出てって」
腕を叩く手を強くすれば、渋々といった体でようやく腕が離れた。
「よろしければ着替えを手伝いましょうか」
「必要ないから。いいから早く出てくれない」
「恋人なんですから、別に気にする事も無いでしょう」
「そういう問題じゃない」
「僕も着替えないといけないですし」
そう言ってジェイドは私の机の上を指す。見なくても分かる。ジェイドの制服一式が置いてあるだろう。隣の部屋が空き部屋で物置として使われているので、いつもそっちにジェイドを行かせている。そう、このやり取りは毎日行われているのだ。何のきっかけでこんなに毎日毎日部屋にやってきてベッドに入りこむようになったのか分からないが、何を言っても無駄なので放置することにした。あ、いや、セキュリティを突破してくるのは本当に勘弁してほしいんだけど。オートロックだから部屋から出してドアを閉めれば鍵がかかっているし、ジェイドが最初に侵入した時とは暗証番号が変わっているはずなのにすんなりとまた、制服に着替えたジェイドが入ってくる。百歩譲って暗証番号は入れれるとして、指紋認証はどうやっているのか。私の指紋しか登録していない筈なのに。誰か詳しい寮生が裏切り、ジェイドに加担しているのか。いや、裏切るとかではなく脅されているのかもしれない。イグニハイド寮生は基本的にどう考えてもジェイドとの相性は悪そうだ。というかジェイドに限らず、大体の他寮生との相性がよろしくないのだけど。
「では行きましょうか。パスタは昼食にしますか? それとも夕食がいいですか?」
「どっちでも」
「では昼にパスタをお作りしましょう。夕食はお迎えに上がりますから、是非ラウンジの新作を」
「モストロ・ラウンジには行かないよ。あんな陽キャの集まる所になんか行けない」
「大丈夫ですよ。閉店間際にお連れしますし、個室をご用意しますから」
「嫌だ。絶対無理。ジェイドが部屋まで持ってきてよ。それか寮の食堂で作って」
「ふふ、わがままですねぇ。貴女がそう望むのなら構いませんよ。そう致しましょうか」
その代わり、と言いながら囲うようにまたジェイドの腕が背から回り引き寄せられる。結ぼうとしていたネクタイがジェイドの手に渡る。そのままネクタイを殊更丁寧に結ばれる。ネクタイを結ぶのが苦手でいつもリボン結びしていたのだけど、ジェイドが結ぶときちんとネクタイとして結ばれる。こうして私から手の動きが見やすいように結んでくれるが、同じように結べたことは一度もない。結び終わった後、鏡越しにジェイドと目が合う。
「僕を部屋に泊めてくださいますよね」
「……外泊届と許可が下りればね」
「えぇ、勿論です。イデアさんとの交渉は僕がしますから」
楽しそうに笑うジェイドの腕に徐々に力が入り抱きしめられる。胸がドキドキと高鳴り、顔が熱くなる。私に恋愛に関する心は枯れていると思っていたのにそうでもないのだと思い知らされた。マンガや小説、ゲームの中に描かれる恋愛シチュエーションがいくら頭に入っていようと、ジェイドと接していれば不慣れであることが浮き彫りになって恥ずかしくて仕方がない。
肩に乗る腕が重くて肩が凝りそうだと呟けば、ジェイドは何が可笑しいのかクスクスと笑っている。結局全てジェイドの思うままに進んでいるように感じて舌打ちをするも、負け惜しみの音にしかならなかった。