7.fairytale-おとぎ話-





故郷に『虐められていた亀を助け、その礼に竜宮城に連れて行かれもてなされる』という話があった。所謂恩返し系の話だが、オチは『開けてはならないという箱を開けてしまい白髪の老人』になるので、単純な報恩話とはいかない。だからこの話が一体何を教訓にすべく伝えられているのか実際のところよく分かっていないわけだけど、何であれ弱きを助け、っていうのはいい事なんだろうと思う。きっと多分。
つい最近、海の見える街に引っ越してきた。何でも母たっての希望らしい。母はあまり幼い頃の話をしないのだが、とにかく海の近くに住みたいとずっと言っていた。そして父がそんなに言うのなら、と引っ越しを決意したのだ。母はそれはもう大変に喜び、ほぼ一人で引っ越しの準備を済ませてしまった。いつもは穏やかで控えめな母がこんなに楽しそうにしているのを見て、父と二人顔を見合わせた。引っ越し先も家の裏にすぐ海が見える立地で、母は大層喜んでいた。私は自室となった場所を片付けた後、母を手伝おうとしたが、早々に厄介払いされるように海でも見てきなさいと家から出されたのだ。母は穏やかで控えめだが、自身のテリトリーは自分で一から管理したいタイプだ。
そんなわけで暇を持て余し海辺を目的もなく歩いていた。そうすると、少し先に何やら青っぽい塊が打ち上げられているのが見えた。近づいていけばそれが魚……いや人魚であった。人魚。存在していることは知っていたが、本当にいるんだ、と感心してしまった。その人魚は大きく、私の身長をゆうに越している。寝ているのかと思えば、やけに浅い呼吸を繰り返しており、どことなく具合が悪そうだ。人魚というのは地上でも活動出来るのだと聞いた事があるが、どうなんだろう。目の前の人魚を見る限り、このまま放置するのは非常に危険そうだった。
じゃあ海に戻してやろうにも、波打ち際まで5mはある。試しに人魚の身体を押してみたが、びくともしなかった。家に戻って人手を増やそうにも、父は仕事に出かけているし、母を連れてきたところで多分無理だろう。母も大分非力だ。さっき押したとき、人魚の皮膚(鱗と言うべきかわからない)は随分渇いていたように感じた。もしかしたら乾燥がいけないのかもしれないと思い当たって、近くに転がっていたバケツ(穴は開いてなかった)を拾って、海水を汲み人魚にかけてやる。海と人魚の間を往復すること数十回(何せバケツが小さかったのだ)、ピクリと人魚が動いた。もう何往復も海水を運んだせいで息も切れ切れになっていた私は、ようやくか、と一息つけた。しかし人魚は少し動いた物の、起き上がろうとしない。まさかまだ意識戻ってないんじゃないかと、頭の方に回り込んで覗き込んだ。ばっちりと開いた目と目が合う。人魚はぱちぱちと目を瞬かせて私を見ている。

「無事?」

反応は変わらず。ただじっと私を見るばかりだ。

「あー……もしかして言葉通じない? でもなぁ私人魚語とかわかんないし」
「……いえ、通じていますよ」

どうしたものかと首を傾げた時、人魚が口を開いた。問題なく言葉が通じている。

「あぁよかった。このまま人魚の干物が出来上がっちゃうかと思った」
「それは……勘弁願いたいですね。助けてくださったようでありがとうございます」
「いいんだけどね。それより、もう自力で海に帰れそう?」

流暢に話し始めた人魚に、さっきまでは何だったんだと思いつつ海を指させば、人魚は困ったように眉を下げた。

「いえ……長いこと陸にいたせいか、あまり力が出ません。這って行くのは難しいですね」
「そうなの……でも私が押してもびくともしなかったし」

困ったような顔をしているくせに、どこか他人事のように話す人魚を見る。このまま放置して人魚を干からびさせるのも目覚めが悪いし、かといって父が帰宅するまで定期的に海水をかけ続けるのもやりたくない。体力的に無理。

「ふむ……。それでは僭越ながらIQの底上げをしてさしあげます。近くに縄はありませんか?」
「縄?」

何だか若干馬鹿にされたような気がするが、何も案が浮かばないのも事実。人魚の言葉に従って辺りを見回した。流石砂浜、というか沢山の漂流物だったりが散乱している。これなら縄も見つけられそうだ。
探しに行こうと立ち上がると頭がクラっとした。そういえばこんなに天気もいいのに帽子を被っていなかった。砂浜に転がしたままのバケツに海水を汲んで今一度人魚にぶっかけた。少しばかり乱暴になってしまったのは、やっぱりさっきの言葉は私を馬鹿にしているな、と改めて認識して腹が立ったからだけど、人魚は全然堪えてないようだった。
探し始めて暫く、そんなに時間が掛からず縄を見つけられたので、今だぐったりと横たわっている人魚の元に戻った。

「あったよ、縄。これでいい?」
「えぇ、十分です。ではその縄を下に敷いて……」

人魚の指示に従って縄を敷いていく。波打ち際まで縄の道が出来ると人魚がその縄の上にゆっくりと這っていき乗っかった。

「これで僕を押してみてください」

言われた通り人魚の身体を押すと、さっきはビクともしなかったのに動いたのだ。まだ重いには重いのだが、何とか一人でもどうにかなるレベルだ。
無事に人魚の身体が海水に浸かったところで、ようやく人魚も自分で動いて海に身体を沈めた。

「助かりました。ありがとうございます」
「いえいえ……人魚のアドバイスのおかげだよ」
「まぁ、それもそうですね。そういえば名乗ずに失礼致しました。僕はジェイドと申します」
「あ、これはどうもご丁寧に。私は。よろしく」
「えぇ、どうぞよろしくお願い致しますね。ところで、助けて頂いたお礼なんですが」
「えぇ? いいよ別に。大したことしていないし」
「いえ、あのままでは僕、干からびて死んでしまうところでしたから。いわば貴女は僕の命の恩人。生半可な礼で終わらせるわけにはいきません」
「えぇー……」

そう言って人魚、もといジェイドはしゃがみ込んでいた私の両手をがっしり握ったのだ。

「そうだ。珊瑚の海の観光名所をご案内致しましょう。人間にも人気のスポットや知られていない絶景が見られる穴場スポットなど沢山ありますよ」
「いや間に合ってるんで」
「どこがです? 見た事無いでしょう?」
「そりゃあ無いけど。私、見ての通り人間だから海の中で呼吸すらできないし」
「あぁ、そんなことですか。ご安心ください。水の中で呼吸が出来るようになる魔法薬があります」
「え。あー、それにほら! 水圧で潰れちゃうかも」
「それも込みの魔法薬ですから問題ありませんね」
「……ご厚意の押し売りじゃん」

じゃあ行きましょうか、とどこから取り出したのか巻貝の形をした瓶を差し出された。ご丁寧に蓋も開けられている。こうなったらさっさと観光して帰ってこようと一気に瓶をあおった。めちゃくちゃまずかった。思わず吐きだしそうになるのを、しっかり後頭部を抑えられていたせいで全て飲み込まされた。

「では僕の背に乗って……そう、しっかり腕を僕の前に回して組んでください。行きますよ」

飲み終わったと思ったらジェイドの背に誘導される。何だか呼吸が苦しくなってきた。促されるままにジェイドにおんぶされるような体制になる。ざぶん、と勢いよくジェイドが海に潜った。不思議なことに、本当に海の中で呼吸が出来るし、何なら目を開けても全く海水が目に沁みない。魔法薬というのは割と万能だったのだな、と思わず感心してしまった。

「珊瑚の海の観光地はとても綺麗ですよ。すぐ着きますから、しっかり掴まっていてくださいね」

そう言ってジェイドはものすごいスピードで泳ぎ始めた。人魚とはこんなにも速く泳げるものなのか、と驚いた。そして余りの速さに振り落とされては溜まったものじゃないな、と腕に力を込めた。
泳ぐこと数分、周りの景色が明るくなったように感じる。

「さぁ、着きましたよ」

物凄いスピードで泳いでいたにも関わらず、全く息を乱していないジェイドの声に周りを見渡す。
そこは見渡す限りのサンゴ礁が広がっていた。エメラルドグリーンに見える海水に色とりどりのサンゴ、そしてその周りを泳ぐ可愛らしい魚たち。夢か幻かを疑ってもおかしくないくらいに幻想的な景色がそこにはあった。

「どうです、綺麗でしょう? こちらは特に観光客の皆さんに好評の場所なんですよ」
「……うん、本当に綺麗。凄い……海の中ってこんなに明るかったんだ」
「ふふっ、お気に召していただけたようで何よりです」

そうして私はジェイドの背に乗ったまま、ジェイドが指さし説明してくれる様々なものに見入っていた。初めて見る物ばかりで興奮していたのも確かだ。すっかり時間など忘れていた。

「次は珊瑚の海でも有名なリストランテにご案内します。陸とはまた違った文化の料理ですが、きっと気に入られるかと」
「へぇ、それは楽しみ」

しかしそこでハッ、と気付いたのだ。私、母に何も言わず来てしまったと。それに海の中に来て随分立ったように思う。

「ねぇ、魔法薬の効果はいつまで? それに私、帰らないと……お母さん心配してるだろうし」
「大丈夫ですよ。魔法薬の効果が切れるにはまだまだ時間がありますし、切れそうになったらまた新しい魔法薬を差し上げます。それに、お帰りになるにはまだ早いでしょう。僕、まだまだ恩をお返し出来てません」
「え、でも」
「ね、せめてリストランテは行きましょう。僕の幼馴染のご両親が運営されてるんです。それに僕の双子の兄弟や幼馴染を紹介したいのです」
「……じゃあ、」
「ありがとうございます! では少し急ぎましょうか」

困ったように眉を下げたジェイドに、何だか分からないが罪悪感が湧いてしまい思わず頷いてしまった。途端ニッコリと笑顔に変わったジェイドにしてやられたと気付いたけど、もうジェイドは泳ぎ始めていたし、そもそも帰るにもジェイドに送ってもらわないと私一人では帰れない。結局選択肢は一つしかなかった。
連れてこられたリストランテはとても素敵な場所だったし、何なら敷居が高いように思えた。けれど海の中でメインの顧客が人魚だからか、ドレスコードというものもなく、そもそも人間の客という事で随分と丁寧な接客をされたように思う。ジェイドの知り合いの店というのもあるのだろうが。そこで紹介を受けた幼馴染とやらはジェイドを見た途端「どこをほっつき泳いでたんだ!」と詰め寄ったのだが、背中にいる私を見て驚いた顔をした後、どうみても余所行きの笑顔で丁重にもてなしてくれた。そして双子の兄弟だという方は(マジでクリソツ)何やら面白いおもちゃでも見つけたかのような顔で笑っているから少し怖い。何かされるわけでもないのに。
色々な料理を出され、みんなで食事を取っていたのだが、ふと取ってつけたかのようにアズールが「そういえばお時間は平気ですか?」と聞いてきたのだ。時計を持っていない私は今が何時なのか知ることが出来ない。スマホすら所持していなかった。

「えー、帰る場所陸でしょ? 今から出たんじゃ真っ暗だし幾らジェイドでも危ないんじゃなぁい?」

ニコニコとたこ焼きを頬張っていたフロイドが機嫌良さそうに言った。そんなフロイドをとても嫌そうな顔で見ていたアズールも、フロイドの言葉に頷いた。

「でも帰らないと……」
「お気持ちは分かりますが、夜の海は昼間とその表情を変えます。……ジェイド」
「えぇ、勿論です。アズール。僕の恩人なのですから」

ずっと隣に座って給仕やら何やらしてくれていたジェイドが私に向き直った。

「今日は僕たちの家に泊って行ってください。貴女のご実家にその旨連絡いたしますから」
「え、連絡できるの?」
「勿論です。大昔と違って、今は陸との交流も盛んですから」

そうして連れて行ってもらったジェイドの家で、ようやく家に連絡を取ることが出来た。母は何一つ気にしていなかったようで拍子抜けしてしまった。そのままジェイドのお母さんが「よその、ましてや息子の恩人のご家族の方にぜひ直接お礼を伝えたい」と母と会話を始めたので、私はジェイドに腕を引かれるままついて行った。

「ゆっくりしていってくださいね」

整えられたゲストルームに案内してくれたジェイドの笑顔に、何故か背筋が冷えた。今日何度も見た笑顔で、何も変わったことなどないはずなのに。きっと気のせいだろう、とその日はすぐベッドに入った。疲れていたのかすぐに寝てしまった。
次の日、天候が大荒れで、陸に上がるのは危険だと聞かされ、冷や汗が流れた。
私、いつ家に帰れるんだろうか。