曙に触れる











どうして失恋なんてものがあるのだろう。

異世界から鏡に招かれて二人の生徒がやってきた。一方は辛うじて魔力はあるがもう一方は魔力がない。色々あったようで今は二人ともこの学園の生徒として在籍しているが、当初は魔力のある方だけだった。彼女はこの世界の常識すら知らないのに自分と同じクラスに配属され、2学年の授業を受けつつ、稚魚が学ぶようなことも同時に学習しなくてはならなくなった。良い成績を取れば生活環境がより良くなるのだと、控えめに笑ったあの顔を今でも覚えている。彼女が住んでいるオンボロ寮はかねてよりモストロ・ラウンジの2号店として目を付けていた物件だったから、手に入れたときに少しでも良い状態の方がいいだろう、と彼女の学力向上に手を貸した。それが建前になったのは、期末試験の結果が出た時だった。
もちろん、彼女にアズールと契約を交わさないかと声を掛けた。担保はオンボロ寮で、試験結果が出るまでは寮に住んでいてもいいと破格の条件までつけて。学年で50位以上に入ればきっと学園長から施されるご褒美で寮が綺麗になるだろうし、50位以下になればオンボロ寮が手に入る。どちらに転んでもいいと思った。オンボロ寮を追い出したら、オクタヴィネル寮のゲストルームを貸し出して賃料はラウンジでのアルバイトにしよう、とまで考えていたのに彼女は少し考えてすぐに断った。「そもそも50位以上を取る必要はないから」と。だというのに蓋を開けてみれば彼女はしっかり50位以内に入っていて、こちらを得意げな顔をして笑ってみせた。その顔を見てからはもう駄目だった。何をどうしても彼女が欲しくて仕方なくなった。。だからもう一人の魔力の無い生徒との契約にいつも以上に力を入れた。監督生さんが負ければ、自動的に彼女も行き場をなくす。そうしたら今度こそオクタヴィネル寮に住まわせようとしていたのに。まさかアズールがオーバーブロットしてしまう羽目になるとは。結局狙っていたものは何一つ手に入らなくて散々だった。
また一から彼女を手に入れる方法を考え直さなくてはならなくなったと肩を落としていた所に、今度はフロイドが監督生さんの事を気に入って騒がしくなった。フロイドが誰を気に入り好きになろうがそれこそフロイドの好きにすればいいが、監督生の情報を少しでも手に入れようと彼女に絡みにいくのは見過ごせない。いくらフロイドとはいえ、他の雄を易々と近づけたいと思うはずがない。だから仕方なく監督生さんに自分が探りを入れることにした。どうせなら彼女の事も聞きだそうという打算もあった。むしろそちらがメインだった。イソギンチャクの件もあるから中々に警戒されているかと思えば、どうやら監督生さんもフロイドを憎からず思っているようで、事は思っていたよりも早く済みそうだった。フロイドと監督生さん、二人の恋愛相談の様なものを聞かされて、自分の恋もままならない事に非常に疲れていたと思う。ようやく二人が付き合いだした時はずっしりと肩に乗っていたものが降りて軽くなったように感じたものだ。これでようやく彼女とゆっくり仲を深めていこう、と幸せそうに笑いあっている二人を見やった後彼女を見て愕然とした。
彼女がフロイドを見ているその表情は、およそあの二人を祝福するようなものではない。フロイドを見る彼女の視線が歪んでいる。今にも泣き出してしまうのではないかと思う程に。
何故、何故フロイドなのか。クラスも違う、話す機会なんて殆ど無かった。だというのに、僕ではなくてフロイドをどうして好きになってしまったのか。
いつも昼休みや放課後の空いた時間は図書館で勉強していた彼女が、そこから姿を消した。フロイドと監督生さんが付き合いだしてからだ。人気の無いところで座り込んで必死に泣き声を押し殺している。
ずっと好いていた女性の心は、双子の片割れのを想っていたなんてとんだ笑い話だ。
泣き声を押し殺しているその姿を探し彼女からは見えない場所に隠れて様子を伺うのは、決して自分の前では零されることのない嗚咽すら聞き逃すのが惜しいと思うから。
その内に、夜オンボロ寮の前まで来てしまうようになった。一度オンボロ寮を担保に取った時に皮肉にも彼女の部屋の位置は把握済みだった。きっと今、あの窓の向こうでベッドに千切れるような声を押し付けているのだろうと、声が届いているはずもないのに胸が締め付けられるようだ。例えば一人で抱え込まないでください、と言えば彼女は僕の胸で泣いてくれるだろうか。
彼女が泣いているあの寮には監督生さんもいる。それを考える度に部屋に押し入って彼女を連れ去ってしまいそうになる。そんな事をしても彼女の心から誰かの影を消すことは出来ないと分かっているのに。
今日も彼女は泣いているのだろう。
フロイドが好きだというのなら、僕だってフロイドとほぼ似通っているではないですか。姿かたちは共通点しかないのに、と自嘲が漏れる。いっそ成り代われたら、彼女に愛されるのだろうか。
フロイドだったら彼女に触れることが許されるのだろうか。
フロイド、ならば。
放課後、人気のない校舎裏で大きく息を詰めるような引きつるような声を聞いた。その声に胸を抉られた様に感じてもう限界だろうと思った。自分だけではなくきっと彼女もだろうと言い訳を重ねて、オンボロ寮の前に立った。
自主練だとか散歩だとかで夜で歩いている生徒はそれなりにいるが、今日に限って誰ともすれ違わなかった。それがやけに自寮からオンボロ寮までの距離を短いものだと錯覚させた。
もう諦めましょう、と言ってしまったらどうなるだろう。あんなに泣いて戻ってきたら何事も無かったような澄ました顔を見せる強靭な精神の持ち主には焼け石に水だろうか。
どれだけでも泣いて構いませんよと抱き寄せてしまったどうなるだろう。それは自分の願望でしかなくて何一つ彼女の利になりえない。
フロイドなら彼女の全てを受け入れて、かつ彼女を喜ばせてしまうことも出来るのだろう。まさか片割れにこんな嫉妬をすることになるだなんて。
その辺に転がっていた小石を彼女の部屋の窓に魔法で飛ばしたのは、どうであれ彼女に会いたかったから。
例え一言でも彼女の中に残したかったという悪あがきがそうさせたのかもしれない。
だから彼女がそれを無視してくれればいいと思うと同時に、足は張り付いたように動かなかった。これは陸に上がって足が思うように使えなくてだなんて言い訳も出来ない。陸に上がって様々な苦労をしたけれど、それ以上に今苦しい。
何もせず寮の自室に戻ることが出来たなら、またいつもの関係のままでいられるのだと知っていたのに。
部屋の窓にかかっていたカーテンはそんな希望など一蹴するかのように真横に動いてしまった。
窓越しに見える彼女の顔は涙で濡れていると、遠目でも確信を持てた。声は聞こえないが、何かを呟いたあの口の形は、僕の名前であれば嬉しいけれど。
そんなことあるはずないと、オンボロ寮の玄関を見る。
この時はまだ、本当にただ、彼女を慰めようと。得意の紅茶を振る舞って何でもない話をして帰ろうと、確かに思っていた。少しでも別の誰かの事を想う時間を無くしてしまえればと本当に思っていたのだ。

「ジェイ……」

涙に濡れた匂いをさせていて尚、何事も無かったかのように振る舞おうとする彼女に嗚呼それは駄目だと思ったのはフロイドに嫉妬していたことを認めてしまったせいだ。彼女に自分の名前を呼ばせてはいけない。
涙を止めては意味がない。最後まで言わせる気はなかった。
気付けば身体は勝手に動いていて、腕の中で彼女を締め付けていた。胸へと上げられた手は拒否する為だろう。
これがフロイドなら拒否されなかったのだろうか。これが、僕ではない、フロイドなら。

「……代わりで、構いません」

女々しくも縋るような声だと自分自身に舌打ちしてしまいたくなった。これではまるで同情を誘っている様ではないか。こんな言い方をしてしまえば、情の深い彼女が断れる筈もないと、無意識に自分で分かってやったに違いない。
確信犯だと分かっていても彼女の香りと体温を感じれば唇が自然とその透き通った白い首筋に吸い寄せられる。どこまでも甘い香りに頭をぶつけたような衝撃と衝動を感じた。くらくらする。
自分の様な不甲斐ない雄には許されるはずのないその熱をもう手放せなくて彼女の身体に回した腕をさらに強くした。彼女の両腕が力が抜けたかのように落ちる。代替を許容したのであっても、きっとこの行為への許しなんかではないと分かっている。
頭にちらつくあの片割れの雄ならこんな事せずとも済んだろう。それがどうしても腹が立ち、片手でも余裕で持ち上げて攫ってしまえる程の重さしかない彼女を抱えて持ち上げた。
物の少ない部屋に入ってすぐ目に入るベッドに彼女を降ろしてまた後悔する。彼女が誰かを想って泣きはらしていた場所でまたさらに深く彼女の後悔を抉ろうとしている自分はなんて卑しいのだろう。
どうにも取り繕ってすらいない代替品であると自分自身を下げてまでも彼女に触れたい。
白いシーツに横たえられた彼女はわずかな間だけこちらを見上げていたが、すぐに目を閉じてしまった。
この身はフロイドの髪色や肌の色にそっくりなはずで、他人に見分けがつかないこともしばしばある。それでも彼女は目を閉じ瞼の裏であくまでもフロイドを求めているのだろうかと想像した。
その二人の絡みは吐き気がする。フロイドは監督生さんを選び、また監督生さんもフロイドを選んだ。彼女はいる隙間はどこにもない。だからそんな幻想ありえないと分かりきっている。だというのにどこまでも追いすがってくる不安を払いのけようと彼女の身体へと覆いかぶさった。鎖骨近くの柔らかい皮膚に唇を寄せてその場所に痕を残す。本当はこんな行為は許されないのだと思い出す。
誰かの代わりが彼女の肌に痕を付けて許されるはずもない。けれど彼女は拒否などしなかった。彼女の瞼の裏に映っているフロイドは優しいのだろうかと思えば自然に手に力が入って、自身の付けているネクタイを解くというよりも引きちぎる程の勢いだった。

「……明かり」

煩わしいものすべてを取り払って早く彼女に直接触れたいと性急に服を脱ごうとしていたその頭に冷や水を浴びせられたかのように小さい声が耳に届いた。
彼女の瞼が開いていて、フロイドではないと認識してしまったのだろうと気付いた。
それが無性に苦しい。彼女が誰に好かれたいのか今更ながらに突き付けられた気がして、胸ポケットに入っているマジカルペンを構えた。
この明かりを消してしまえば、もう自分はフロイドとして彼女に扱われるのだろう。ジェイドとして戻れなくなるということだ。
本当にそんな事をしてまで彼女に触れたいのですか。僅かな間を置いて部屋の明かりが静かに消える。言うまでもなく、YESだった。
そう、どれだけ言葉を重ねて言い繕うとも、そもそもこれは彼女を慰めたいという言い訳を盾に自分の欲望を叶えようとする横暴な行為だ。本当に慰めたいのなら話を聞くだけで良かった。様々な言葉を尽くして彼女に寄り添ってやる事が出来ただろう。
あるいはフロイドを諦めろという話でも良かった。代わりだなんて都合のいい言葉を持ち出したのは自分自身に他ならない。
殆ど解けかけていたネクタイに指を入れて首から取り去る。いちいち脱ぐことに時間を掛けたくなくてブレザーもベストもまとめて脱いだ。シャツ一枚と身軽になって彼女を見下ろす。今こうしてベッドの上にある彼女を何度夢に見た事か。そしてそんな幻想で何度自分を慰めた事か。思い出すのも億劫な回数に上る。
ゆっくりと伸ばした手でもってしっかりと彼女の身体を囲った。触れる皮膚の暖かさも柔らかさも本物の彼女の物だ。一番最初に触れた時点で、とっくに手放せない事なんて分かりきっていたけれど、彼女の事情など無視してこうやって言いくるめて腕の中に囲い食らい尽くさんとするその残酷さは、海のギャングと呼ばれるウツボの自分に中々相応しい激情だ。
人間とは一線をかすその醜さを隠す様に彼女の身体に唇で触れた。愛していると彼女に囁いて、人間と違い明かりの無いこんな暗闇でも問題なく彼女を記憶しておけるのだと告げてしまうのは許されない。
例え朝になって公開で消えてしまいたくなったとしても、絶対に許されないのだから。
何せ自分にとってこれは、ただの喜びの行為にしかならないのだ。彼女が必死にかみ殺していても溢れる涙は、まるでフロイドから彼女を奪い去ってしまえるような優越感に似た錯覚にすら陥る。
どれだけ強く抱きしめていても全く拒絶してこない彼女の気持ちが、ほんの少しでも自分に向いていやしないかとあるはずもない希望を確かめずにいられなくて彼女が隠そうとする顔を強引に上向けた。勿論、これがルール違反だということは重々承知の上だ。

「こんなこと……」

やめにしようとでも言うのだろう。途中まで紡がれた言葉はやはり希望などではなかった。ここまで来て彼女はフロイドに操を立てようとしているのか。
それが言葉にならなければ彼女とこの夜を過ごす雄は自分になる。フロイドでも、いずれ現れる運命なんかでもなく、紛れもなくジェイドという雄に。
目の前にその現実を見せられて、彼女を腕に囲っている状態で諦められる男なら、初めからこんなことしていない。

諦めてください、もう、貴女は僕の尾ひれに絡めとられているのですよ。

そう言葉にする勇気は卑怯な自分に存在しない。
言葉を吐きだせない唇を彼女のそれに押し付けた。苦しいのだろう、彼女の顔が歪む。苦しいのなら、シーツに爪を立てるのではなく僕を傷つければいいのに。横目に見える彼女の力が入って白くなっている指に自分の指を絡める。むしろ自分の身体に彼女によって施される痕が残らないかという願望であって、彼女を気遣ったものでもないことに気付いて気が遠くなる。
結局徹頭徹尾彼女を傷つけるような事しか考えていない。この部屋に踏み込んだ時点でそんな資格は失われていて、二度とこちらを見てもらえない程の傷を残したというのに。
彼女のきつく閉じられた瞼の裏ではお優しいフロイドが彼女に愛を囁いているのだろうか。
その唇が謝罪の形に動いた気がした。謝ったのは、汚された事への後悔だろうか。

「ごめんなさい、……」

そして恐らく意識をなくしたのだろうその唇が直前に紡いだ名前に、思わず動きを止めた。
今、何と。
絡めたままの指先からは力が抜けている。見下ろしたその目尻から耳の方に新しい涙の痕が残る。
何故監督生さんの名前にその謝罪が出てきたのか。何故泣きながらその名を呼んだのか。
心臓が早鐘を打つかのように大きな音を立てている。
その名を呼んだのが本当に間違いではないのならば、嗚呼、これは重罪などを超えてくだらない悲劇で笑えない喜劇だ。
こんな希望くだらない。これまでも希望は全て砕けてきたと分かりきっているのに。自分に都合の良い未来ばかり想像して彼女の救いになるとでも思っているのか。
朝になる前にここを出て、フロイドの代替としての時間を終わらせる。
自分がしなくてはならないのはそれだけの筈で、これ以上穢れた雄の姿など彼女の視界に入っていいはずがないと息を吐く。
朝になったら全てが終わるような、そんな魔法だったのだと。
何処までも浅ましく希望を捨てられずに、意識をなくして眠り込んでいる彼女の横に同じように寝ころんで目を閉じた。