暁を望む







気付いた時には、多分失恋していた。

照れて顔を赤く染めた監督生ちゃんを見る。一個下の可愛い後輩。一緒にこの世界にやってきて、助け合って元の世界に帰ろうと手を取り合った。
本来であればこの学校に招かれるには至らないが、何故か微量ながら魔力があった私は当初から生徒として入学を認められた。監督生ちゃんより一つ年齢が上だから、とそのまま2学年に編入という無茶ではあったが、それでも何とかやるしかなかった。というのも学園長が、私の成績如何ではオンボロ寮での生活をより良いものにすると言ってくれたから。私が勉学に付きっきりになるその代わりに、最初は雑用係だった監督生ちゃんがグリムとセットで一生徒として学園に通うようになり、プラスアルファで学園長からの雑用をこなしていた。
学園長は、私がただの小テストでも良い成績を取ればオンボロ寮の設備を良いものにしてくれたし、私達のお小遣いも少し増やしてくれた。「先輩凄いです!」と監督生ちゃんが褒めて喜んでくれるから頑張った。「私、勉強はからっきしなんで」と言って雑用を私の分まで進んで熟す。適材適所なんだ、と。それに結局、私は座学は点を取れても実践だとへなちょこだったので、むしろ魔法でバトルするような場面は危ないから後ろに下がっていろ、と関わる人皆に言われる。運動神経も良くないし、あまりにも目が当てられないのか後輩にあたるエーデュースコンビにすら気を遣われているのだ。
「好きな人が出来たんです」と顔を赤くして震えながら言った彼女を、どうして応援せずにいられようか。寂しい気持ちもあったけど、好きな人に振り向いてもらえるように頑張る姿を見守っていた。そしてついに、彼女はその思いを実らせた。
中庭で二人仲良く話している姿を見かける。相手がフロイド・リーチであると知った時は驚いたけど。冷やかされても怒り出さないフロイドの姿を見て、遊びじゃないんだなと安心したのだ。ただ純粋に祝う気持ちで溢れていたはずだった。けれど、そんな片割れを見ているジェイド・リーチを見て、気付いてしまったのだ。
ジェイド・リーチはクラスメイトであるが故に、それなりに話すことも多かった。先生からの指示でペアを組まされることが多かったのだ。周りからの風評がよく聞こえていたから、滅多なことに関わり合いになりたくはないと彼に弱みを余計に握られないよう、より一層勉学に励んだおかげで今の成績があると言ってもきっと過言ではない。期末試験で、ジェイドに持ち掛けられた営業(試験対策ノート)を断って、それでもしっかり50位以上に名を連ねた時は、流石のジェイドも驚いてくれたようで、以来ジェイドは私の事を見る目を多少は変えたらしい。そのせいか「興味があります」と私について回るようになってしまった。いや、元々異世界人だということで興味はあったようなのだけど、それを大っぴらにするようにしてしまったのだ。監督生ちゃんがグリム達イソギンチャクを解放しようとした時は私もそれなりに巻き込まれたのだけど、今思い返せばそれなりに絡まれた気がする。イソギンチャク達を解放した後からは、監督生ちゃんと話す姿をよく見かけていた。監督生ちゃんは割と誰とでも臆することなく話すからなぁ、と特に気にしてもいなかったのだけど。
けれどこうして見ていると、あのジェイドの二人を見つめる目がただ二人が付き合って祝福しているというよりはもっと別の感情を含んでいるように感じた。どこか切なさや哀愁を感じるその目に、よく監督生と二人で話していた光景がよみがえる。ああして話している時のジェイドは、それはもう楽しそうだった。そう見えた。それで、きっとジェイドは監督生ちゃんが好きだったんだろう、と思い至ったのだ。そしてすぐ、よかったな、と思ってしまったのだ。
愕然とした。
無意識にそう思ったのだ。監督生ちゃんは別の人と付き合っているから、ジェイドとは付き合えないのだと、ジェイドが監督生ちゃんと付き合わなかったことを喜んでいた。その時に私はジェイドが好きなのだと気付いた。そして理解した。私がジェイドに振り向いてもらえる事も無いだろう、と。だって、監督生ちゃんより先に知り合っていたけれど、彼が好きになったのは監督生ちゃんだったのだから。彼女とでは私に勝ち目などない。社交的で明るい彼女は誰からも頼りにされ、輪の中心にいる。私の元に話しかけてくる生徒の大半は、監督生ちゃんへの橋渡しを願ってくる。つまりは、そういうことなのだ。ただ黙って勉強しかできない根暗で人付き合いの悪い女など誰も見向きもしない。それでいいと、思っていたはずなのだけど。ジェイドの姿を見て初めてそれを後悔した。
私では駄目だったの、なんて今更気持ちに気付いたような私が言っていいセリフじゃない。失恋を悲しむだとかその前に「彼は監督生ちゃんのものにはならないんだな」という安心感が芽生えてしまったことと、毎日疲労と眠気と戦い少しでも成績を向上させることに重きを置いている私の生活において何もかも優先順位を付けて行動してしまうのだから、一番に気持ちを優先しない私に恋を名乗る資格もないだろう。
アズール・アーシェングロットがオーバーブロットした後、以前にも増してキノコのおすそ分けだとか授業の分からないところについて教えてくれたりだとかしてくれるようになって、そういった優しさ全てが私を通した先に監督生ちゃんを見据えている。ならば、まがい物である私が受けるべきじゃないと自覚している。きっと、与えられるそれらは監督生ちゃんに与えられるべきものなんだろう。
だから辛くとも泣いてはいけないと人のいない所を探しては、その影に潜り込み、抑えきれない感情をその闇の中に押し殺す。最初はその短時間でよかったはずなのに、日々を過ごすうちにそれだけでは抑えきれなくなって最近では寮の自室のベッドの中で泣きはらしていた。監督生ちゃんと部屋を離しておいてよかった、とこの時ほど思ったことはない。
こんな風に泣いていいのは決して自分ではないとわかっている。ジェイドが監督生ちゃん達を見る度に傷ついていると知ってそれでも目の届く範囲にいられる幸せを感じている自分ではない。
この世界にやってきたのが監督生ちゃんだけだったら良かった。そうしたらこんなに苦しい思いを知らずに済んだ。例えそれはジェイドが私の存在など知ることもなく監督生ちゃんだけを瞳に写すのだとしても。
引きつるような泣き声が漏れそうになって両手で強く口元を押えた。
分かっていても彼を想って出るこんな声など消えてしまえばいい。未練がましく彼を追うこの瞳なんて光を失ってしまえばいいと思う。モストロ・ラウンジに通ってポイントを貯めて願ってみようか。いや、結局そこに回せるお金なんて無いのだった。それにアズールにそんな事を願うとしてどれだけポイント貯めればいいのやら。
失恋したと気付いた時には流れなかった涙を見る回数がこのところ増えた。この世界について知ることが多くなり、普段の授業やテストに余裕が出来たからだろうか。だとしたら、このところ親身になって色々教えてくれるジェイドのおかげとも言える。それならばやっぱり私が流していい涙じゃない。全ては私の為の施しじゃないのだから。何をするでもなく、何も出来ずにただ人に恋をして与えられないことを悲しむ涙は相応しくないと、途切れがちな息を意識してゆっくりと吐きだした。
夜明けまで眠ることも出来ずにこうして泣き過ごすのはいい加減やめにしたい。どうせ寝られないのならば私は勉強するべきだ。その方が私に価値が生まれる。そう思えば被っていた布団を引きはがしゆっくりと起き上がる。泣いた後の倦怠感は、徹夜明けの試験後よりも辛い。
一度冷たい水で顔を洗おうと思っても、部屋から出ないといけない。もう夜も遅い時間だし、監督生ちゃんやグリムも寝ているだろうから起こさないようにしなくては。廊下のきしむ音はうぐいす張りかと思う程確実に鳴るので、ある程度諦める。階段を降りてしまえば生活音の殆どは二階に聞こえないから、いっそお風呂に入ってしまおうか。そう思って身を翻した途端、窓からカツン、と何か軽いものが当たった音がした。一度だけなら気のせいかと思ったのだが、どうにも定期的に音がするから、誰かが外から窓に向かって小石でも投げているのだろうか。こんな夜に何事かと時計を見て、急ぎの用事だろうかと支給されているスマホを確認するが何も連絡はない。監督生ちゃんの部屋と間違えているんじゃないだろうな、とカーテンを掴んだ。一度頬に手を当て、続けて瞼を人差し指で撫でる。今まで泣いていたけれど、そんな余韻こんな暗い時間であれば他人に気付かれる事も無いに違いない。また聞こえた窓に当たる音に、カーテンを開けた。
そのまま窓の鍵を開けようとした手が止まる。たかが二階の距離でもはっきりと分かるその人物にまるで全身が凍り付いたように動かなくなった。

「ジェイド……」

こんな時間にどうしたのだとか、何か用でも、とか問いかけるべき言葉は思いつくのに一つも口から出てこない。少し困ったような笑顔で立っているジェイドは、目線をオンボロ寮の玄関に持って行った。開けろ、という事だろうか。ここで窓を掛けて会話するには、大きな声を出さないといけない。一体何の目的があって訪ねてきたのか。もし、それが監督生ちゃんに関わる事ならば、私は彼女の為にもジェイドを止めないといけないことになる。
足音に気を遣ってゆっくり一階に降りた。オンボロ寮の玄関の鍵を開ける。何故このようなときに限ってゴースト達は出てこないのか。今がゴールデンタイムじゃないのか。蝶番がきしむ音を立てながら扉を開ける。そろそろ油を差さなくてはいけない。

「ジェイ……ドっ!?」

今度こそ「どうしたの?」と聞くつもりでその先駆けとなるはずの名前を呼ぼうとして途中で途切れた。
気付けば背中に壁があった。いや、壁と背中の間に腕が回されている。反射で逃げようとするも、両足の間に動きを邪魔するかのような膝の感触がした。

「……代わりで、構いません」

聞いた事もない声だった。要件もなしに苦し紛れに告げられたような押し殺して掠れた声だった。
代わり、代わりって何の事なんだろうと考えようとした瞬間に私より随分と差のある大柄な上体が傾ぐ。首筋に触れたそれは熱いのか冷たいのか、それとも温いのか、それを脳が理解する前に頬に髪の感触がした。
代わりというのかそのままの意味なんだろうか。代替という。彼が本当にそれを与えたい人間の。今、二階で安らかに寝ているであろう彼女の代わり。
なんだ、そういうことか。
拒否しようとして上げかけていた腕から力が抜けた。
ジェイドが代わりで良いと言うのなら、代わりでも構わない。何の意味もなく、それどころか余計虚しくなるだけだとは分かりきっているけど。自分に成績を取ること以外で世界に役目を持てるのなら。しかもそれは特にジェイドの世界における役目になるのなら、それで十分だ。
ゆっくりと体が持ち上げられて、そのまま運ばれる。着いて降ろされた先は、先ほどまで自分が泣きはらしていたベッドの上だった。迷う素振りもなくこの部屋にジェイドは辿り着いたけど、よく私の部屋を知っていたな、とふと思う。
明かりをつけっぱなしで部屋を出た為、見上げた部屋の照明にジェイドの髪が照らされている。その表情は逆行になっていて良く見えなかったけど、記憶しておきたいとは思わなくて目を閉じた。ジェイドが誰かを想って浮かべる表情なんて、私が見て覚えていていいものじゃない。
自分のものとは全く違う腕で抱きすくめられて、鎖骨の辺りにまた唇が落ちた。つい先ほどは理解に至らなかった感触が今度は熱として感じることが出来た。人魚だから体温が低いのだといつか言っていたが、きっとあれば嘘だ。だって今、こんなに熱い。
あぁそうだ。いくら同じ人型をしているとはいえ、この身体は監督生ちゃんとは違いすぎる。自分とは真逆に、活動的に動き回る彼女の健康的な肌色とは違いすぎて、この青白い肌では、目にしてしまえば代わりになどなれやしないだろう。

「……明かり」

小さく呟くように告げる。声も違うから、出来るだけ声を抑えた。ピタリと、ネクタイを緩めていたジェイドと目が合った。このまま代わりにもならない身体を差し出すわけにもいかない。
僅かに眉を寄せたジェイドの心情は如何ばかりか。監督生ちゃんはこんなこと言わないかな。
起き上がったジェイドは胸ポケットからマジカルペンを取り出して、照明に向けた。少しの間を置いてから軽くペンを振って明かりを落とした。
動きも緩やかに手がこちらに伸びてくる。そのまま囲うように腕を回され、少し苦しいくらいしっかりと抱きしめられた。
ジェイドの名前を呼んで縋りつけるのならば。この期に及んでそんな事を考えている自分が酷く汚らわしく思えて、また溢れそうな涙を必死に押し殺す。この声さえ漏らさなければ夜を越えられる。そしたらきっと、もう泣いて夜を過ごす事も無くなるはずだ。自分のとんでもないほどの浅ましさに、泣くことすら許されないのだと思い知るだろうから。
背中に回っていた腕が解かれて、両頬を包まれる。逸らしていた顔を正面に直され、そのまま上を向かされた。指が、瞼に触れる。駄目だ、そこは泣きはらしたまま何もせずにいた。触れられたら濡れていると気付かれてしまっただろう。間違っても同情を買いたくはない。

「こんなこと、」

やっぱりやめよう、と口にしようとした言葉は覆いかぶさるジェイドの唇で塞がれて途中で音にならなかった。
どう考えても傷つくのはジェイドの方で、きっとジェイドは私なんかを代わりにしてしまったことを気に病むだろうとしか思えなかった。私はもう、どれだけ傷ついても構わないけれど、ジェイドが無闇に傷つくのは嫌だった。今更私が慮ることではないのかもしれない偽善なのだとしても。
上手く呼吸が出来ない。これは酸欠なのか、はたまたこれまでに蓄積された疲労や倦怠感からくる眠気なのか分からないけど、どんどん意識が薄れていくのを感じた。
段々と白くなっていく意識の中、ただ今夜の事は忘れてなるものかと思う。
声は出せない。出してはいけない。こんな行為を浅ましくも喜んでしまっている私に、謝る資格なんてあるだろうか。でも、せめて夢の中でだけでも謝らせてほしい。自己満足でしかないかもしれないけど。これが朝になったら全てが終わっている魔法だとするならば。
ごめんなさい、監督生ちゃん。私、貴女を利用した。許してほしいとは言わないから。
事の罪深さを気付いていながらも、代替品を務める為に声を殺す様に唇を噛んだのが最後の記憶だった。