家の池には人魚が出る






家の裏側に池だか沼だかがある。祖母は、深いところが5m以上あるからあれは湖だと言っていたが、直径を考えると湖というには小さい気がする。池や沼、湖の違いがよくわからないが、調べる気は全くない。だから私はその時の気分で池と呼んだり沼と呼んだりした。
特にこれといって手を加え手入れをしているわけではないのだが、コンディションが良い時は底が見えるくらい水が透き通る。祖母が幼い頃は飲み水として使っていたと聞いた。どうやらどっかから水が湧いているらしい。もう水道も完備されている家で、わざわざ家の敷地内とは言え、池だか沼だかの水を飲もうとは思わないので、飲んだことは無い。
小学校低学年の頃は、家族に「あまり近づかないように」とよくよく言い含められたものだが、中学生ともなれば何のその。何も考えず水の中にばちゃばちゃ入っていくなんてこともない。水泳を習っているからなのか、水というもの親近感があった。夜更けに家族もみんな寝静まった頃、この池のほとりにやってきて、火照った足を突っ込むのがいつの間にか習慣になっていた。幼い頃は真っ黒に染まった夜の池なぞ恐怖の対象でしかなかったのに、成長するもんだな、と感慨深いものがある。ただし、祖母が言うように、この池だが沼だか湖だかは、その真ん中に近づくにつれて深くなり、一番深いところだと全然足がつかない。5m以上あると言っていたが、まぁ多分そのくらいはあるのだろう。明るい時にほとりから見ても、真ん中あたりは色が濃く底が見えない。だからあまり近づくな、と言われたのだ。
水に足を入れ、バタ足しても何も引っかからない。何故かここに魚などの生物がいないのだ。綺麗すぎる水は逆に生物が住めないなどというが、そう言う事なんだろうか。まぁ別に魚やザリガニ釣りをしたいわけではないので、一向にかまわないのだけど。
その日も寝苦しい夜に耐え切れず、水分補給した後に池に寄り道した。しっかりタオルを持って行っていたのだから、計画された寄り道ではあったのだが。ひんやりどころではなく冷えた水の中に足を突っ込むのは、分かっていることとは言え体が跳ねてしまう。何度かつけたり離したりを繰り返して足を入れた。しっかりひざの関節部まで浸かる。この池は徐々に深くなっていくとはいえ、そもそもがそれなりの深さがある。多分今の私だと、ほとり付近であれば足はつくが、胸より下まで浸かるだろう。ちょっとしたプールだ。だから小さい頃は万が一落ちたら事だから、と口を酸っぱくして言われたのだ。
風もなくじっとりとまとわりつく暑さに、簡単にまとめ上げていただけの髪をもう一度まとめ直そうと留めていたクリップを取った。その時、何故か手が滑ってしまって、取り落としてしまった。髪留めはそのまま地面でバウンドして、ぽちゃん、と池の中に落ちる。
うっわやってしまった、と池をのぞき込むが、こんな深夜じゃいくら透き通る水とは言え、真っ暗で底は見えやしない。携帯の明かりをかざしてみてもあまり変わらない。最近買ったばかりのお気に入りの髪留めだったから、諦めたくないけど、夜が明けて明るくなってから探すしかない。多分ほとりの近くに落としたからすぐに見つかるだろう。そう思って今日はもう寝てしまおう、と足を自ら引き上げようとした時だった。――何かぬるりとしたものにかすった。水草の類じゃない。弾力があったから魚かなんかだ。蛙だろうか。この池で魚や蛙を見た事は一度も無いけど。
水につけている足を動かしたらまた得体の知れないものをかすめるんじゃないかと思うと、迂闊に動かせない。かといって、じゃあ夜が明けるまでここにいるつもりかと言われると、朝が来るまで5時間はある。無理だ。とにかくゆっくり、ゆっくり足を動かそう、と気休めになるかわからないが、水面に携帯の明かりを向けた。キラッ、と何かに反射した。何だ、と目を凝らして――後悔した。
それは目だった。金色の目。水面から顔半分が出ており、こちらを見ていた。喉から潰れたような、まともな音にもなっていない悲鳴が出た。逃げるべく足を戻そうとするが、動かない。恐怖で動けないのではなく、足首を掴まれているようだった。足を引いてもその拘束は外れない。そんなに強く掴まれている様には感じないのに。ガタガタと震える体に力が入らないせいだろうか。言葉にならない声を出して、ついには泣いていたと思う。その金色の目とは目が合ったままだ。しばらく――といってもそんなに長い時間ではないはずだが、私にはとてつもなく長い時間に感じた――そのまま膠着状態だったのだけど、金色の目がスイー、とゆっくりこちらに近づいてきて体が跳ねる。もう足首の拘束は解けていたが、少しも動かせなかった。距離が50pもないくらいに縮まる頃には、半分しか出てなかった顔も全部出ていた。明らかに人ではない。耳の部分にヒレの様なものが付いている。魚人、と言えばそれが一番想像しやすいだろうか。暗くてしっかりとはわからないが、肌の色も違うようだ。今だこちらを見上げる目とは目が合ったままだ。逸らした瞬間に良くないことが起きるんじゃないかと思うと、逸らすことが出来ない。どうしようどうしよう、とガタガタ震えていると、魚人の顔がにっこり、と愛想の良い笑顔に変わった。え? と思った次の瞬間には、水面から水掻きの付いた魚人の手が出てきて、驚いて目をつぶった。

「これ、貴女が落としたものでしょう?」

驚くほど優しい声色と問いかけに、恐る恐る恐怖でつぶっていた目を開けると、魚人の手の上には先程私が手を滑らせて落としたお気に入りの髪留めが乗っかっていた。確かに私がさっきまで髪につけていたものだ。その髪留めを差し出されて、受け取らなくてはと思うのに、手が出ない。

「貴女のなんですよね?」

再度問いかけられた声に、必死で頭をコクコクと上下に振る。そうだと思いました、とそう言って魚人は私の手を取って髪留めを押し付けた。冷たい。髪留めを返してもらった後も、魚人は傍から離れない。他に何かあるのだろうか、やっぱりこう、水の中に引きずり込むつもりなのだろうか、と考えてそこでようやく、礼を言っていないことに思い当たった。

「あ、あの……ありがとうございます」
「いえ、構いませんよ。ついででしたので」
「ついで……?」

何のついでだろう、と首を傾げると、魚人はにっこりと笑っていた顔をますますニコニコとさせてさらに近くに寄ってきた。思わず後ずさろうとして、また足を掴まれる。

「こんなに近くで人間を見て話すのは初めてでして。髪留めも拾って差し上げた事ですし、せっかくですから何か話してください」

随分と大雑把にぶん投げてくるな、とぽかんとしてしまった。ふ、っとそれまであった恐怖だとかが飛んだ。

「……なんです? そんなに大きく口を開けて。僕に求婚しているのですか」
「は? 求婚……?」

何言ってるんだ、とそのまま文化の違いについて話すことになった。どうやらこの魚人は知的好奇心が強いのか、こちらの話をそれはもう興味津々といった体で聞いていたし、質問も飛んできた。とりあえず、先ほどの行為が求婚では全くないことをしっかり伝えられたので良かったと思う。まさかの魚人が初プロポーズとか笑い話にもならない。
そうして話している内に、随分と慣れてしまったのか、飛んで行った恐怖は終ぞ戻ってこなかった。ちらりと携帯を見れば、もう随分な時間になっていた。流石に夜更かしが過ぎる。だからもう寝る旨を伝える。

「おや、もうそんな時間ですか。ではまた会いましょう」

まだ足りない、といった表情をしながらも、そう言ってぱちゃんと水音を立てて魚人は水の中に潜って出てこなくなった。

「え、また会うの?」

丁寧な口調ながら、雑にぶん投げてくる魚人(のちに人魚であると訂正された)との交流が始まった瞬間だった。