絶頂-ecstasy-






まだ幼い頃の話だ。
夕焼けの草原の隅の隅。王家から見向きもされない無秩序地帯。所謂スラム街に暮らしていた頃の話。
物心ついた頃にはもうすでにその街の地面に転がっているような生活をしていた。日々の食べるモノに困って、人目を盗んでパンを失敬する。足の速さが自慢だった。誰も私の足には適わない、そんな自負すらあった。ましてや私腹を肥やしてぶくぶくに太った肉の塊たちに追いつかれる筈なんてない。触れたくても触れられない、まるで風の様だと言ってくれたのは誰だったか。魔法なんて使えない私が大人たちに捕まることなく生きてこられたのはこの足のおかげと言っても過言ではないだろう。ただその日の空腹を満たすのが全てで、善悪など考えつきもしなかった。いや、もちろん盗みが悪い事だと知ってはいた。ただ、だからと言って法を守っていられる余裕なんてなかったのだ。天国や地獄があるとして、このスラムよりマシなのであれば喜んで行きたい。死んで救われるならいくらでも。救われる保障なんてないからただ走る。「人はみな平等でなくてはならない」と涙ながらに訴えていた何処かの誰かがいた。有名な女優だかなんだか知らないけど、彼女が泣き叫んだところでスラムは何一つ変わらない。
スラムには子供が多い。口減らしに捨てられた子がそれなりにいるからだ。弱ければそのまま死んでいく。ただ、こんなスラムにでも捨てる神あれば拾う神ありとでもいうのか、お人好しがいた。スラムの片隅でひっそりと子供たちに囲まれた年配の女性。名前は知らない。子供たちに「ばあちゃん」と呼ばれているその人は、確かに温和な人柄がよく出ているように感じた。小さな家に子供たちを集め、食事や寝床を提供している様だった。何度も何度も声を掛けられたが、どうしても私はその輪の中に入ることが出来なかった。そんなはずはないのに、私の足が鈍ってしまうのではないかと思ったのだ。生きるためにとても便利なこの足を、彼女を囲う子供たちの為にも使えるかと言われると、出来ない気がした。今更そんな「人の為」を装ったところで、私のやっている悪い事はそのままだし、そんな理由をつけて善行に見せかけようとする考えが嫌だった。そして何より、子供たちが羨ましくて、妬んでいたのだと思う。
その「ばあちゃん」の元に、私と同じ年頃の男の子がいた。名前はなんだったか……ハイエナの獣人で、とにかく手癖が悪かった。スリの技術は、そうと知られず行えるほどだったと思う。気付かれないから逃げる必要もない。もちろん足も速かったのだけど。
いつもいつも戦利品を子供たちに分け与えている彼を遠くから見て、何て偽善的なんだろうと醜い感情を隠すためになるべく近づかないようにしていた。何度か目が合うことはあっても、話したことは殆どなかった。話したいと思っていたかどうかももう覚えていない。
変わったのはそう、私に買い手がついた時だった。
とても幸運なことに、昔亡くした娘によく似ているとかで富豪の夫婦に引き取られることになったのだ。大出世だ。迎えにきたという彼らから新品のワンピースを贈られる。白いワンピースなんて着たことがない。甘い話に裏があると思いはしても、甘い汁を吸いたいという気持ちには勝てず、喜んでついていくことを決めた。

「アンタ、随分と小綺麗になったんスね」

ふいに話しかけられた。メイド達に何回も水浴びさせられて用意されたワンピースを身に纏う。

「白がそんなに似合うとは思ってなかったんスよ。だからやめといた方がいい、って言おうと思ってたんスけど……」

砂に汚れた服を着た彼がいた。そうだ、ラギーだ。確かそう呼ばれていたはずだ。

「オレ、スラム育ちにしては魔法が達者な方だから、魔法士になってばあちゃんやチビ達に腹いっぱい食わせてやって、それで」

いきなり話し出したラギーをただ見やるしかない。こんなにも話す人だと思ってなかった。どんどん歯切れが悪くなって、しまいには黙り込んでしまう。

「それで、アンタに――」

ラギーが言い終わる前に、引き取り先の夫婦に呼ばれた。「今行く」と返せば、これから私につきっきりになる教育係が「今行きます、と言いましょう」と窘めた。
もう一度ラギーに向き合えば、何故か悲しそうな諦めたような顔で私を見ていた。もうきっと彼に会うことは無いだろうな、と思うとそんな顔を最後の記憶にしたくはないと思う。

「ねぇ、笑ってラギー。私も笑うから。また会えた時も私と一緒に笑ってね」

ばいばい、と言うよりまたね、と手を振りたい。嗚呼、きっと私はこの時に初恋というものを自覚したのだろう。