カタルシス-catharsis-




わざわざ面倒な外出届を出してまで見に行った舞台は、その評判に違うことなく鮮烈な幕引きだった。下りた幕を暫し見つめること数分、帰宅時間が迫っていることを思い出して慌てて帰路についた。鏡での移動が可能だけど、指定された場所までこの劇場からそれなりに時間がかかる。魔法とは一見何でも出来るようで、その実決まりごとが多くて面倒なものだ。学ぶまでそんな現実を知らなかった。

「ゲームをしましょうか。あなたは逃げる。僕があなたを時間までに捕まえられなければ、僕の負け。簡単でしょう?」

別に大してこの舞台が見たいわけではなかった。指定の時間中、学園外で過ごせればそれでよかった。ただ、どうせならとマジカメで評判の高い舞台を見てみようと思っただけだった。
けれど、そんな適当な思いとは裏腹に、すっかり舞台に引き込まれてしまった。題材は昔から有名な戯曲で、少しだけど話の流れを知っていたのがよかったのかもしれない。劇団オリジナルの解釈も上手に演出されていて、感情移入がしやすかったように思う。原作通り彼女の恋が報われることは無かったけど、その結末に納得がいくものだった。あんな劇的な恋をしてみたい、と思わなくもないが悲劇は嫌だな、とどこまでも自己中心的だ。
時計を確認すれば、まもなく時間だ。
長針が12の文字盤を過ぎれば「私の勝ち」だ。ルールを設定したのはあっちだし、そのルールに学園外に出てはいけないとは一切なかった。このゲーム、どうしても負けるわけにはいかなかった。どれだけ姑息な手であろうとも。何なら向こうの十八番だろうに、今回は正攻法で来たというのだろうか。まさかそんな。そう、そうだ。だから最後まで油断しちゃいけないのだった。

二日ほど前の事だったと思う。特にこれといって話したことのないクラスメイトに空き教室へ呼び出された。それが悪評高いジェイド・リーチであった時、私は最大限に警戒をした。そんな私を見て笑ったジェイドは懐から小さな箱を取り出してこちらに差し出してきたのだ。

「受け取っていただけませんか」

笑顔のまま差し出されるそれを受け取っていいのか悩んだが、短気なのかジェイドが無理やり押し付けてきて仕方なく受け取った。そのまま開けるように促されて、首を傾げたまま開けるとそこには、場にそぐわない高級感あふれる指輪だった。石に詳しくないが、もし本物だとすればダイヤということになるのだろうか。ただのガラスには到底見えない。

「あなたが望むのなら、ダイヤモンドに変えますけど、それはジルコンです。いきなりダイヤを渡されても困るでしょう?」
「それはそうだけど、そもそも指輪を渡されても困る」
「きっと似合うと思って選んだんですが……あぁほら、やっぱり。よくお似合いだ」

呆然と見上げるだけの私の手を取ったジェイドがそのまま指輪をはめてきたものだから、驚いてその手を振り払う。

「一体何のつもり!?」
「何の……ですか。分かりませんか? あなたはそんなに鈍い方だとは思いませんが」
「こんなことして何がしたいのか聞いてるの。額面通りに受け取れるわけないでしょう!」
「悲しいですね……。もちろん、そのままの意味でお渡ししているんですよ。ぜひあなたに僕の番になっていただきたいと思いまして」

理解が追いつかなくて二の句が継げない。普段から何を考えているのか分からない男だと思っていてけれど、こんな輪にかけて意味不明な性質だとは思ってもいなかった。

「絶対に嫌。こんなもの……あれ、外れない」
「特製の指輪です。紛失防止の魔法が掛かっています。解除方法は僕しか知りません」
「はぁ!?」
「どうやら僕の想いは今ここで受け入れてもらえない様子ですね。けれど、僕もそう簡単に諦められませんから」

ゲームをしよう、と持ち掛けてきたのはジェイドからだ。不利かと思ったけれど、条件が悪くなくて私にも十分勝機が見えた。評判からはそうと思えないほど、不公平さを感じなかった。だから私はそのゲームを受けたのだ。

「あの時計が22時を過ぎたらゲーム終了。開始は今から1時間後にしましょうか」

そう言われて、手元の時計の時刻を合わせた。一分一秒のズレもないように。それを見届けたジェイドがあまりにも余裕綽々といった顔をするものだから、絶対に負けるもんかと教室から走り出て、そうして学園外に出たのだ。
学園内では、ジェイドに協力する人が多くいる。それはジェイド達の下僕となり果てた生徒であったり色々だけど、私に不利になりそうなものは徹底的に排除したかった。学園外に出てしまえば、一気にこの鬼ごっこの難易度が上がる。まさか私がたまたま当日券に余裕のあった人気のある舞台観劇に行って、その身を拘束される空間にいるとはジェイドも思わないだろう。自信があったのだ。
そして念には念を入れて、22時を過ぎてから学園に戻る。完璧な逃走劇だった。

「お待ちしておりましたよ。これで僕の勝ちですね」

慇懃無礼にかしこまった礼の形をとるジェイドが待ち伏せていなければ。
学園に戻った瞬間、鏡の間に立っていたジェイドに腕を掴まれた。

「な、何言ってるの。もう22時はとっくに過ぎたわ!」
「おや、それはあなたの時計でしょう? まだゲームは終了していませんよ」
「は……? だって」

肩をすくめたジェイドに腕を引かれて、放課後呼び出された空き教室に連れて行かれた。

「ほら、まだ22時になっていないでしょう?」

そこには、ガラスが割れてひしゃげた時計が、18:47で止まっていた。

「ゲームが始まった後、不幸にも誰かが放った魔法がぶつかってしまったみたいで壊れてしまったのです。ルールではこの時計が22時を過ぎるまででしたよね」
「なっ、こんなの無効よ!」
「けれどルールに時計が壊れたら無効、とは入ってませんでしたし」

口角が上がり牙がのぞいた笑顔に、私はただ拳を握りしめる事しかできなかった。