安寧を得る




海の中における生存競争は、えげつないほどに顕著だ。
人魚族は生態系のほぼ頂点に立つかもしれないが、それも種族や魔力など、個々の力によってヒエラルキーが変わっていく。言語を解し、文明を築き上げた我々人魚において、力こそすべて、とは中々に言い難いのも事実。勿論、強いに越したことは無い。けれど、生き残る方法はそれだけじゃない。知力や美しさなんてのも十分生き残るために有用なものだと言える。
とは言え、「強い」というのは相当に魅力的だ。強さを売りにするような種族は、スクールに入る前の稚魚中の稚魚の内から生きることを選別されることもあるらしい。私みたいに両親の元で大切に育ててもらったような人魚とはもうお育ちが違う。別に含みなんてない。既に行われた生存競争で生き残った人魚なんてのは、ある種の英雄だ。そんな人魚が同じスクールにいるとなれば、注目の的になるのも当然の事で、勿論私も彼らの事を知っていた。
海のギャングと名高い、ウツボの人魚。リーチ兄弟のことである。
彼らは他に沢山いたであろう兄弟たちが全て生存競争に負けた中生き残っている猛者である。聞いた話によると、自分達よりも大きいサメを仕留めたとか何とか。そんな彼らがスクールに入学してきた当初は、それはもう大騒ぎだった。どうにか彼らに取り入って安全な生活の保障を得たいと思う人魚達と、「そんなの知らねー」と言わんばかりに暴れるリーチ兄弟が起こす騒ぎといったら、筆舌に尽くしがたい。それらの騒動は非常に私の記憶に深く根付いており、ミドルスクール卒業間近となった今でも(関わらんとこ)と思わせるには十分な事柄であった。おかげで、件のリーチ兄弟と話したことなんて、数える程もあるかどうか、というレベルだ。そもそも私の種族は活発に動くような魚ではない。本来であればずっと海底や岩礁で動かず過ごす。生粋の省エネ派なのだ。私は魚ではなく人魚なので、魚よりかは動きに制限がないけれど。地上に出ればバリバリに目立つ派手で真っ赤な尾ひれを持つが、光の届かない深海において、赤は保護色となる。おかげで私は地味で目立たない雑魚、と認識されているに違いない、と信じて疑っていなかった。

そんな穏やかで平凡であるはずの私の生活が、ある事件により激変した。

帰宅した私は、何故か定時より早く帰ってきていた父親がいることに疑問を抱きつつ、出来上がった夕食を家族全員揃って食べた。3人しかいない家族だが、父が遅くまで仕事をしているので中々夕食時に全員揃わない。やけに機嫌の良さそうな両親の姿に、(久しぶりに揃ったからかな)程度の感想しか抱かなかったのだ。これが間違いだった。
夕食後、皿洗いを手伝って、ゆっくり自室で休もうとしていた所を呼び止められた。再び食卓テーブルにつかされて、何だと思っていれば、母がそれはもう興奮気味に言ったのだ。

「あなたがリーチさん家のご子息の番候補に選ばれたのよ!!」

母の言っている言葉が理解できなかった。やったわね、これであなたの将来は安定したも同然よ、とはしゃぐ母を呆然と見つめる。パパはまだ番とか早いと思うんだけどなぁ、とか零している場合ではないんだ父よ。

「え、いや……何で?」

命の保障を得たい人魚達が、端的に言えばリーチ兄弟に媚を売っているのはもちろん知っている。中でも雌の人魚達は年々美形として成長していく二人の姿も相まって、相当にアプローチをしているのも知っている。そしてそれらを彼ら兄弟は一切無視していることだって知っている。これでも情報には耳聡い方だ。競争の激しい海の中では正確な情報をどれだけ早く握ることが出来るかが生きるために非常に重要だからだ。だからこそ、「リーチ兄弟の番候補を選考している」なんて話聞いたことがない。
はしゃぎ続けている母をなだめて、詳しい話をお願いしたところ、どうやらリーチ家より正式に申し出があったらしい。実際の書状も見せてもらった。本物だと思う。というか、届けに来たのがリーチ兄弟の片割れである、ジェイドだというのだ。まさかそんなはずないじゃん、と疑ったが、母は絶対に間違いない・見間違えるはずがない、と言い張る。どうにも母は、ジェイド・リーチ自ら打診の書状を持ってきたのだから、もうこれはジェイドの番として打診されたも同然だと、そんな考えらしい。そんなわけあってたまるか。これ以上の話を聞けなさそうだと諦めて、届けられた書状を貰う。こうなったら、凄く嫌だけど、本人に直接確認を取るのが早い。悪戯であるならその時だけ何とか凌げばいい。あまり関りあいがないのだから、向こうもそうおかしなことをしてこないだろう、と。何かの間違いであったとすぐにわかるだろうと思っていた。

「あぁ、無事あなたの元に届いたのですね」

良かったです。とにこやかに笑うジェイド・リーチを見て、これは夢なんじゃないかと現実逃避したくなった。
翌日、スクールで何とかジェイドが一人になる瞬間は無いかと見ていれば、ふいにジェイドがどこかに泳ぎ去っていったので、これ幸いと追いかけた。すると、大きな岩礁の端で止まっているジェイドを見つけたので声を掛けると、「お待ちしていました」と迎えられたのだ。少し嫌な予感がしたけれど、とりあえず目的を果たそうと昨日預かった書状を取り出せば、ジェイドがとても明るい声で言ったのだ。

「ここ最近、僕たちに擦り寄ってくる雑魚……いえ、人魚達が多いものですから、いっそ大々的に番を選んでしまおうという話になりまして。希望者を募って、その中から選ぼうという事です。とはいえ、僕に関して言えば、出来レースなんですけどね」

そう言ってジェイドは私が持っている書状を抜き取り開いた。

「恥ずかしながら、これまで恋文なんてもの書いたことなかったものですから……どうにも格式ばった内容になってしまって。これでは僕の気持ちの半分も伝わらないと後悔していたのです。けれど、あなたはこうして僕のところに来てくれた」

嫌な予感がしたときに尾鰭を返して逃げればよかった。そんな後悔が頭を過ったけど、体がもう動かない。

「僕の番になっていただけませんか」

気が付いたら、いつの間にか私が岩礁を背にしていて逃げ道を塞がれていた。
どうやら何かの間違いというわけではなかったらしい。困ったことになった。
将来の生活の安全を考えるなら、母が言うように、ジェイド・リーチの番というのは大変に魅力的だと言える。そんな事は分かっている。けれど、どうしても二つ返事で頷けない。
だって、あのリーチ兄弟なのだ。フロイドばかり目立っているが、このジェイドがこれまでにしてきた所業だってえげつないものばかり。他人の弱みを握り、それを面白おかしく扱う。ジェイドは見ている限り、自分が楽しければそれで良いタイプで、その為の労力を惜しまない。だからどれだけジェイドが私に向かって真剣な顔をして「番になってほしい」等と言われたところで……そう簡単に受け入れられない。

「え、と……それは、難しいというか……その、」

バシ、っと断れれば良いのだけど、そうした場合に私がこの先平穏な生活を変わらず送れるかと言えば送れない可能性の方が高い。

「頷いていただけない? いえ、いいのです。そうでしょうね、何せ僕らはあまり話したこともありませんし、突然の話でさぞ驚かれた事でしょう」

言い淀んでいれば、何故か向こうが非常に物分かりよくこちらの事情を汲んできた。もしかしてとても話がしやすいのではないか、と光明が見えた途端、

「僕の想いをご理解いただかなくてはなりませんね。ご心配なさらず、ウツボは通い婚ですから。これから毎日あなたの元に通わせていただきますね」

ニッコリ笑ったジェイドに耳を疑った。え、通うの? 通ってくるの?

「先ほど申し上げましたが、今回の番選出は出来レース。僕の番はあなただと、もう決めています。あなたはこれまでの生活を変える必要はありません。これから先、僕が隣にいる。それだけの事です」

僕の番があなただと知らしめることも出来ますし、一石二鳥ですよね。そう言いきって満足したのか、ジェイドは上機嫌に私の腰に手を回してきた。矢継ぎ早に告げられて理解が及ばない。

「まずは一緒に教室に戻りましょうか。そろそろ次の授業が始まりますし」

通い婚、ってそれ魚の話じゃないの。ジェイドの両親もウツボの人魚だけど、普通に一緒に暮らしているし、全然通い婚じゃない。どうしてそんなに嬉しそうに通い婚だなんだというのか。あと腰を撫でるのやめてほしい。

「ふふふっ。あなたのこの真っ赤な尾ひれにずぅっと触れたくて仕方がなかったんです。僕たちの一族には無い色ですから。どこにいたってすぐにあなたを見つけられるんですよ」

私の赤い尾ひれは保護色だけど、光源の確保されているスクールでは目に痛いほどはっきり赤が分かる。そのことを言っているのだろう。

「……とりあえず、その手を避けてほしいな、とか思ったり……」
「嫌です。あなたを僕の番なんだと見せびらかさないといけないのですから」
「その話を承諾した覚えないけど」
「同じことです。今はそう言っていますが、きっと僕はあなたを名実ともに僕の番にします」

はっきりと言い切ったジェイドに、背中がぶるりと震えた。悪寒だと信じたい。