It's fun to lose a fight.







 予報通り午後から降り出した雨は、下校時刻になってもその勢いが衰える様子もなく変わらずひっきりなしに降り続いている。空調がしっかり効いているはずの教室内でも、何だか肌に纏わりつくような湿気を感じる気がする。
 事前に予報を確認してしっかり傘を持ってきた生徒は、教室の窓から見ていた限り、あまり多くはない様だった。
 見渡してみても、帰り支度をしているクラスメイト達の中には傘を持ってきておらず、止む気配のない雨を嘆いては見かねた副委員長に傘を創造してもらっている者がいた。
 机の横に人が立った気配がしてその人物を見上げた。

「轟君は傘持ってきた?」

 職場体験から戻ってきて以来、よく話すようになった友人の一人、緑谷出久に尋ねられて自身も傘を持ってきていないことを思い出した。いや、思い出したと言うと語弊があるだろう。持ってくるのを忘れたわけではない、のだが。

「いや、持ってきてねぇ」
「そうなの? じゃあ駅まで……」
「大丈夫だ」

 ずっと仕舞っていたケータイを取り出し、待たせていた連れに連絡を入れる。
普通科はヒーロー科より一時間早く授業が終わるから、いつも待たせてしまう。それでも彼女を先に帰すなんてことはしたくないし、させる訳にいかない、と結局自分の我儘でいつも待たせることになる。この事についてこれまで文句を言われた事はないから、きっと彼女は気にしていないという事なんだろうと思っている。
 すぐに、今図書室にいるのだと予想通りの返信が来た。いつも通り図書室で宿題を片付けていたのだろう。今日は何処か分からないところがあっただろうか。学年順位は向こうの方が上なのだが、理数科目はどうにも苦手らしく、そこで点数を落としがちだ。俺が彼女に自信をもって教えてやれる教科だから、真面目に勉強をすることを止めることは出来ないが、少しだけ苦手なままでいてくれないかと常々思っている。つい自習も理数系に力が入ってしまうのも仕方が無いだろう。分からない所を教える事が出来た時の、あの尊敬の眼差しにはきっと麻薬みたいなものが含まれているに違いない。

が傘持ってきているから」

 朝に家を出る前から『今日は雨の予報だよ』とメッセージを貰ってはいたが、家を出た時に降っていなかったから傘を持ってこなかった。案の定、朝の挨拶の後すぐに、傘を持ってきていないことを咎められたが、その時雨が降っていない限り、何を言われても最初から傘を持ってくる気はなかった。帰りに雨が降っていたのなら、の傘に入れてもらえばいい。ただそれだけの事だ。
 緑谷達に別れを告げて、足早に図書室に向かう。廊下の窓から見ても、外の雨は全く止む気配がない。むしろその勢いはどんどん増している様にも感じる。例え一つの傘に一人で入ったとしても濡れる事は避けられないだろう。ましてや二人で一つの傘に入ったのなら、肩が半分濡れるなんてもので済まないに違いない。以前、「傘と言う字には人が四人入っているのに、実際の傘は二人でさえ碌に入れないのって詐欺じゃない?」とが零していた。彼女はあまり人が気にしない所を気にしすぎるきらいがある。
 家に招いて、風呂にでも入れてやればいいか。そうしたらきっと姉さんがいつもの様に夕飯に誘うだろう。少しでも長く傍においておける口実が増えた事に内心喜んでいれば、到着した図書室の扉からが出てきた。目が合ってすぐにがこちらに駆けてくる。

「だから言ったのに。雨降るんだよ、って」
が傘持ってるだろ」
「そういう問題じゃないんだよなぁ……」

 ため息をつくに、そもそもはお前のせいなのだと中学時代の苦い思い出が蘇る。

 今日みたいに午後から雨が降った日、予報も確認しておらず傘を持ってきていなかった。雨に濡れるのは煩わしいが、個性で体温調節が出来るし、制服もすぐ乾かせるからあまり気にしていなかった。ただ、一緒に帰る彼女が寒い思いをしてしまうのは良くない。ただでさえ個性も無く他の人間よりか弱いのだし、風邪を引いて苦しい思いをさせるなんてもってのほかだ。もし彼女も傘を持っていなければ近くのコンビニまで走って傘を買ってこよう。
そこまで考えた時、ふと一本の傘に一緒に入れば、普段よりもさらに近い距離で過ごせることに気が付いた。
 毎日一緒に登下校して、日々どんなに優しく大切に扱っても、一向に彼女は俺を意識する様子はない。彼女を『無個性』だと揶揄う輩どもから守っていた結果、は俺の事を根っからのお人好しだと信じて疑っていないのだ。勿論、ヒーロー志望として目の前のいじめを見過ごす野郎にはなりたくない、という思いが始まりでこそあった。けれど、そんな建前は早々に撤廃してただが好きで自分の傍にいて欲しいから、という私欲に取って代わっている。周りには俺がをどう思っているかなんて知れ渡っている。そうだ、一目でわかるくらい態度にも言葉にも出しているのに。これ以上何をすればいいんだ、って当たり散らかしたくなる。
 早足での教室に向かった。最後の授業が移動教室で、担任が教科担当だったからそのままHRまでそこで済まされた。おかげでを迎えに行くまでに少し時間がかかる。が無個性ということにかこつけて、やけに絡もうとする男が何人かいるから気が気じゃない。俺がの事が好きで、その上で守っているということが知れ渡っていても尚、ちょっかいをかけてくる奴が多い。つまり、何の牽制にもなっていないという事だった。腹が立つことに。
が転校してきて同じクラスになることが出来ず、休み時間しか様子を見に行くことが出来ない。授業中に酷い言葉を掛けられる、なんてことは教師もいることだし無いと信じたいが、それでも不安だ。
それに、もし傘を調達しに行くことになったとしたらその間、を一人にしてしまう事になる。ただでさえ時間を掛けてしまう事になるし、外もいつもより暗い。は一人暮らしだし、あまり遅い時間に帰したくない。色々な理由が重なり合って更に足が速くなる。大体、無個性だなんだとからかいながらも、どう見たっての気を引きたいが故の行動にしか見えない。今のところが全く相手にしていないからいいが。
教室につけばは自分の席に座っていた。前の席の友人と何事かを話しているらしい。

「悪い、遅くなった」
「全然待ってないよ。それより外、雨凄いね。轟君は傘持ってきてる?」
「……いや、持ってきてねぇんだ。だから、」

 傘を買いに行ってくるよ、と言おうとした時、の机の上に置いてあった鞄から折り畳みの傘が出てきた。紺色のシンプルな傘だった。

「やっぱり。今朝傘持ってないなぁ、って思ったんだけど、もしかしたら折り畳みの持ち歩いてるかもって考えちゃって。言えばよかったね」

 そう言っては前の席の友人に「ごめんね」と何故か謝った。疑問に思いながらも差し出された傘を礼を言って受け取り、そのまま昇降口に向かう。それなりに古い校舎は少し雨が降るだけですぐに空気が水を含んで重たくなる。少し前までは雨漏りもしていたらしい。廊下が滑りやすくなっているから、とに手を差し伸べたが遠慮されてしまった。いつもそうだ。ただ気を遣っているだけでわざわざ手を差し出したりなんかしない、ということを全然分かっていない。けれど、まぁいい。これから帰る間は一つ傘の下。いつもよりよっぽど近い距離にいられる。その距離の近さを少しでも彼女が意識してくれればいいのだが。
 そんな事を考えていた時、ふと今朝登校した時のことを思い出した。そして同時に浮かれていた頭から一瞬で熱が引いていった。

 は、朝、その手に、傘を、持って、……いた。

 そうだ。何故忘れていたのか。朝、いつもの待ち合わせ場所に現れたはその手に雑貨屋で一目惚れした青い紫陽花の咲いた傘を持っていたはずだ。それで「今日は雨の予報だったのか」と確かに聞いた。その時は、確率は低いけど一応……、と少し恥ずかしそうにはにかんで、その顔が可愛かったものだから、衝動的に抱きしめたくなったのを何とか堪えたのだ。全く恋愛っていうのはこんな突発的な気持ちを抑えながら理性的に進めていかなくてはならないだなんて、本当に辛い。一体いつになれば抑えなくてもいい関係になれるのだろうか。考えても仕方ないことばかりが巡ってしまう。これが「恋愛に現を抜かしている」ことになるのだろうか。クソ親父に知られたら面倒なことになるに違いない。

「わぁ、酷い雨だね。これじゃあ傘差しても大分濡れちゃいそう」

 遠くでの声が聞こえる。実際の距離は遠くないはずだが。そしてやっぱりその手には今朝見た紫陽花の傘が握られている。そうか。あの時謝っていたのは、きっと傘を貸してほしいとか何とか頼まれていたのだろう。クソ、何ですぐにそのことに気付かなかったのか。が第一に俺の心配をして傘を優先してくれたというその気持ちは嬉しい。勿論嬉しいが、でも。傘を二人で差して歩いたら、いつも以上に距離が開くだろ。何でだ。同じ傘に入って、何なら「濡れるぞ」とでも言って肩を引き寄せることも出来たかもしれないのに。クソ、何で俺は風の個性を持っていないのか。風を操ることが出来れば傘を壊して一緒の傘に入ることが出来たのに。その後新しい折りたたみ傘を買うっていう建前で休みの日に出かけようと誘えただろうに。氷に炎じゃ一発で俺がわざとやったと知れてしまう。

「轟君、帰ろ」
「……あぁ」

 傘を差して小首を傾げるは文句無しに可愛い。夜目遠目笠の内、なんて一段と女が美しく見える時をそう言うらしい。はっきり見えないからこそ実際より美しく見えるというが、そんな事が関係ないくらい可愛い。惚れた欲目だと言われればそれまでだが、可愛く見えてんだから何の問題は無いだろう。贔屓目上等、俺には一生、が可愛く見えるのだし誰にも迷惑を掛けない。
 今からでも傘を貸してやる様に言おうか。しかしは既に校舎から出てしまっている。雨が降っていて気温が下がって、まだ秋前だというのにそれなりに寒い。そんな中に長時間拘束なんてさせられない。風邪を引いても、の家には誰もいない。勿論、見舞いに行くし出来るなら看病だってしてやりたいが、流石に付き合っていない男女が二人きりで同じ部屋で過ごすのは良くないだろう。何もしない自信は微塵もないし。俺は構わないが、の外聞が悪くなったらいけない。思いつく悩ましい事の殆どが、恋人であれば解決することばかりで悪態をつきそうになる。分かってる。どれだけ想いをぶつけようが、相手に伝わっていなければそれは無いに等しいのだ。悔しい事に。
 そうして俺は、あの日何一つ思い通りに事が運ばないまま、普段よりも離れた距離で下校する羽目になった。あのどうとも言い表せないやるせなさを強く覚えている。もう二度とこんな目に遭わないように、に言い含めた。とは言っても、常に折り畳みの傘を持ち歩いている事は悪い事じゃないから責められない。持ってくるなとも言えない。それならばもう、俺を優先するな、としか言えない。には随分不思議な顔をされたが、それでも何とか頷かせた。友人に傘を貸してやれ、と俺が言うのは大分筋違いだということは分かっている。けれどそれ以外に何と言えばいいのか分からなかった。例えば素直に一緒の傘に入りたいと言えばよかったのか。いや、言えるか? 言えないだろ。言ったところでが不思議そうな顔をしたまま「何で?」と言ってくるに違いない。純粋に傘が二つもあるのにわざわざ一緒の傘に入って濡れるリスクを増やす意味が分からない、という意味だ。そこに俺が世に言う相合傘で距離を縮めたいという下心ありきで言っているとは思いつきもしないのだろう。「ヒーローみたいだね」と出会った最初に言われてとても嬉しかった。ヒーローを目指す者として有難い言葉だった。身近な人を守れなくてヒーローだなんて目指せやしない、とを守ってきた。気付けば下心ありきでが特別になるのに時間は掛からなかった。思っている事がまんま伝わってしまえ、という思いと、そうしたら絶対に逃げられるだろうという確信がある。が逃げたところで、俺にとっては大した問題ではないのだが。遅かれ早かれ、絶対には俺のもんになる。どうせなら自ら俺のところに来てくれれば、それに越したことはない。

 あの頃より骨が少し錆び、撥水性が多少は落ちた紫陽花の咲く傘を差す。

「ねぇ、やっぱり折り畳み傘貸さない方が良かったんじゃない?」

 の持っていた傘を受け取って差した後に、傘の下に入る様促した。の目線は俺の肩辺りに注がれている。まだ濡れていないが、このまま帰れば間違いなく濡れるだろう。

「いいんだ。ほら、もう少し寄んねぇとお前が濡れるぞ。鞄もちゃんと抱えとけよ」

 一緒の傘に入れば距離は確かに近くなるが、ずっと肩を抱き寄せ続けることは難しい。でも別々の傘で並んで歩くより随分いい。

「何だか轟君、機嫌良さそうだね。今日何かいいことあったの?」

 ようやく念願叶ったからだが、それを正直にそのまま言ったらいい加減は俺の気持ちに気付くだろうか。過去何度も敗北した経験があるだけに勝負に出るには随分勝率が低いけれど、言わなければ伝わるものも伝わらないことだってよく分かっている。
 こんなに土砂降りの雨の中なら、駅に着く頃にはどっちみち濡れているだろう。当初の予定通り、このまま家に連れて帰ろう。そうしたらゆっくり時間を掛けてに伝わるまで話してみようか。