五条悟のストレス発散方法 02








 五条悟は確かに、一度は手放すことを決めたのだ。中学を卒業したら、非術師である大事な女の子とは進路が物理的にも離れることは分かりきっていたし、家の者にも煩いくらい言い聞かせられていた。だから一旦離れることに決めた。とはいえ、諦めるなんていうのは建前だということは自分自身でも分かっていた。
時間はたっぷりある。高専を卒業して、自分が五条家の当主になってからでもいい。
じっくり時間を掛けて、の全てを自分のものにするつもりだった。最初っから悟の気持ちは固まっていたと言ってもいい。ただ、それを誰にも言っていなかった。悟の中では決定事項だったが、家の連中に宣言することは得策ではないと分かっていたし、自分の気持ちを、暢気にお菓子を頬張っている今はただの幼馴染であるに伝えることもしなかった。
その事をこんなに後悔する羽目になるなんて、本当に思っていなかったのだが。
大学生になったを渋谷で見かけたのは本当に偶然だった。会うのは三、四年振りになるだろうか。記憶よりもずっと大人びたように見える。気付けば腕を掴んでそのまま近くの喫茶店に連れ込んでいたし、その後はしょっちゅうに会いに行っていた。諦めようとか言っておきながら諦めるなんて選択肢を反故にして、それでも少しカッコつけて時間を掛けてゆっくり手に入れようだなんて言っておきながら、結局常に傍に居られないのはやはりもどかしい。
しかし悟に降りかかってくる仕事は待ってくれない。
呪霊も呪いもこちらの事情なんて知ったこっちゃないと言わんばかりに湧いて出てくるし、それらは雑魚のくせに手間だけが掛かる。そもそも特級呪術師なんてほぼ仕事なんてないようなものだと思っていたのに、ふたを開けてみれば、何でもかんでもこっちに回ってくる。人手が足りないなんていうのは嫌というほど知っているが、特級なんてあやふやで線引きの無い階級はまるでゴミ箱とでも言わんばかりに任務が詰め込まれる。下の階級の呪術師が手に負えなかったもの全て五条悟の元に回ってくるのだから、多忙も多忙だ。そして回ってくる任務は片手で祓えてしまうようなものだったりする。きっとこれらは本当に手に余る内容の物もあるだろうが、中にはただ単に嫌がらせで回されている物もあるに違いないと睨んでいる。悟は自分の立ち位置についてよく理解していた。腐りきった上の連中が自分の事をどう考えているかよく分かっている。馬鹿しかいない腐った上層部は、それでもちまちまとした嫌がらせをするしか出来ないのだ。一つ一つは何てこと無いものばかりであれど、やはり積もればそれは立派に鬱屈として溜まっていく。気付けば悟のストレスは専ら上層部関連となっていた。
ここで例えば呪霊を祓う事でストレス発散出来れば良かったのかもしれない。けれど、悟の術式はぽんぽんとどこでも使えるような代物じゃない。いや、使えるけど、流石にその後の事後処理の面倒さを考えると学生の時のように大っぴらに使えない。そもそも、ストレスを発散させる目的で使おうとするなら、町一個は更地にしないと割に合わない。
きっかけは、出先での履いていたパンプスのヒールが折れてしまった事だったはずだ。普段は高いヒールなんて履かない、と言っていたのにあまりにも悟との身長差があって自分がチビに見えるのが嫌だとかいう理由で卸してきた靴だったか。ちょっと高いヒールを履いたところで正直に言ってしまえば身長差が埋まることは無いのだけど、のそのちょっとした努力がとても可愛らしかったので、悟は大変満足だった。けれどやはり履き慣れていない上に歩き慣れてもいないその靴で、どういうわけかがっつりヒールを溝に挟め、ばっきりと折ったのだ。転びかけた身体はしっかり支えたのだけど、その態勢が悪かったらしい。てこだか何らかの力が余計にかかって折れてしまったのだろう。自身は安物の靴だし、と特に気にも留めていなかったが、その靴ではもう歩けない。新しい靴を調達しなくてはいけないのは明白で、それで悟はせっかくだし、と靴をプレゼントすることにした。
素直にそれを受け入れたに益々気分を良くして、目に付いたショップに入った。ちょうどがヒールを折った場所から目と鼻の先くらいの距離に店があったのだから、ラッキーだった。
店で用意してくれたスリッパを履かせて、をソファに座らせる。店に入る前からは「こんな高い所じゃなくていい」と繰り返していたけれど、一番最初に辿り着いた靴屋はここだったのだから諦めろ、と言えば渋々ながら黙り込んだ。ここが嫌ならご希望の店まで担いでいくことになるけど、と言ったのが効いたのかもしれない。
買い物が楽しい、と思った事はあまりなかった。
けれどの足をとって跪き、色々な靴を履かせるのは本当に楽しかったのだ。「もう高いヒールはいい」と言うを無視して、高くて細いヒールの靴ばかり合わせる。こんなにまじまじとの足を見た事なんて無かったけれど、足首がきゅっと細くて簡単に折れてしまいそうだ。こんなほっそい足首でよく立っていられるな、と思わず感心してしまう。
合わせる靴どれもが捨てがたくて、いっその事全部買おうかと考えていたら悟のそんな考えを読んだようにが「荷物になるから」と言ってきた。これから映画を見て食事をしようと思っていたのだ。確かに、靴は嵩張る荷物になる。宅配してもいいんだけど、映画の時間もあるなと思い直して一番気に入った靴を購入した。
購入した靴を履いているを見て、何だかとてもすっきりしたのだ。欲が満たされたような心地がする。折れた靴よりも高いヒールに足を震わせるを支えるように腰に腕を回して、その手を拒まれないことが嬉しかった。
いいな、これ。
ストレス発散に買い物をする人の気持ちがよく分かった。自分のものなんて買っても楽しくないけど、彼女のものならとても楽しい。どうせなら、靴だけじゃなくて全身全て見繕って着飾らせたい。そういう思考に辿り着くまで時間は掛からなかった。何故なら悟は、それを実行する為に必要な経費を余裕で賄えるほどの財力を持っていたからだ。
 以来、悟は自分にストレスが溜まってくることを感じると、を連れて買い物に出るようになった。親しくしている友人達には「また貢いでいるのか」と悟に貢ぎ癖があるかのように誇張してからかって来るが、悟は全く気にしていなかったし、貢いでいると言っても過言ではないと思っていた。謙虚に遠慮してくるは大変可愛らしいけれど、それよりも自分の金で自分好みに飾り立てる機会を奪われる方が嫌で断られそうになる度にさらに金額を吊り上げた。そうして「が着てくれないならゴミになるだけだよ」と言ってやれば、諦めの速いはため息一つで受け入れてくれた。
 本当に楽しかった。上から下まで全部悟の選んだ洋服やアクセサリーを身に着けるは世界で一番美しいとすら思っている。ただはあまり物が増えることを好ましく思っていないらしかった。悟が十分すぎる程買っても、次訪れた時には悟が購入した覚えのない物がクローゼットに増えている。さらには、普段着なんかも買っているのに全然普段着として着用してくれない。そればっかりは不満だった。不満とは言え、上層部から受けるストレスに比べれば全然可愛いものだったけれど。

「これ以上服とか増えてもしまうところないんだけどなぁ……」

 これみよがしに言われた言葉に、もっと広いマンションを買おうかと冗談交じりで言ったが、よくよく考えればそうするのが一番いいように思えた。
 の住んでいるアパートのセキュリティが薄っぺらいように感じていたのは本当だし、悟の住んでいるマンションと比べると女性の一人暮らしに心配があった。毎日悟が部屋を訪れているわけではない。海外に比べて日本の方が治安はいいとは言え、何があるか分からないのが世の中の常。それならもっと安心して暮らせるところに住まわせるのがいいに決まっている。を守るためにもっとセキュリティの整ったマンションを買うのはいいけど、どうせなら一緒に住んでしまおうか。そのまま籍を入れてしまうのもいいだろう。だって僕はもう随分ゆっくり時間を掛けたし、と今後の予定を軽く反芻した。
 随分昔に、多分中学生の頃だ。何の話がきっかけになったかは覚えていないが、理想のプロポーズの話をしたことがある。プロポーズなんて遠い先の話に当時はあまり興味がなかったのに、何故かが言った理想はしっかり記憶に残っている。

「そんな素振りも無かったのに、「そろそろこれ読んでおいて」ってゼクシィ渡されたらドキドキしちゃうかなぁ」

 その話を聞いた時ゼクシィが何か分からなかった。後日コンビニに寄った時に教えてもらって、それが結婚情報雑誌なのだと知った。
 指輪も薔薇の花束も、綺麗な夜景の見える高級レストランだとか、さらには愛の言葉もない、随分シンプルなその理想は悟が想像していた女子の憧れとはかけ離れていて少し驚いたし、その理想は悟じゃないと叶えられないものではなくて落胆したことも覚えている。
 まぁ、でも、それがの理想なら。
 そう思っての家に訪れる前に本屋に寄った。
 指輪の相場は給料三か月分だとか言われてるし、高級レストランだとかシチュエーションにこだわったらもっとかかるだろう。けれどの理想を叶えるとなると、小学生の遠足に持っていくおやつ代程度で済んでしまう。勿論指輪はこれから用意するけど、どうせなら二人でカタログでも見ながら選ぼう、とぱらりと立ち読みした結婚情報雑誌の中身を思い返す。
 はどういう顔をして喜んでくれるだろうか。
 期待に胸を膨らませて、軽い足取りでアパートの階段を登る。貰った合鍵を差して玄関を開けた。食事を作っている匂いがするから、キッチンにいるだろうか。
 悟が訪れた音を聞きつけて出迎えてくれたに、買ってきたばかりのゼクシィを渡す。

「そろそろこれ、読んでおいてね」

 ドキドキしてくれたかな、との顔を覗き込むが、期待していた表情と違って戸惑う。
 は雑誌を受け取らず、きょとんとした顔で首を傾げている。
 あれ、と悟が思った時には遅かった。の口から予想もしていなかった残酷な言葉が発せられる。

「悟結婚するの?」
「……は?」

 ばさり、と手にしていたゼクシィが床に落ちた。