弱きを助ける
放課後の教室、冬の夕方は日が落ちるのも早くまだ17時前だというのに窓の外は真っ暗だ。窓にしっかりと自分の姿が写っている。
今日は委員の仕事で少し居残りをしていたのだ。作業が終わってそのまままっすぐ帰宅しようとして、教室に宿題のワークを忘れた事を思い出した。休み時間に少しずつ進めていたけど、最後の問題だけ解き終わらなくて仕方がなく家に持ち帰ってこなさなくてはならないのだ。普段は置き勉していたものだからすっかり忘れていた。バスの時間も迫っているし、逃せば20分は待たなくてはならなくなる。その間学校で過ごすのは嫌だった。というのも、あまり長く学校にいたくはないからだ。寒いし薄暗いし……何だか奇妙なモノが見えてしまうし。
本当につい最近の事だ。何が切っ掛けなのかわからないけれど、ふとした時に気持ち悪さを感じ視線を彷徨わせると、黒いもやもやしたものが漂っているのを見た。夢か幻か、寝不足かと思って何度目を擦っても消えていなくならない。きっと疲れているのだ。高校受験も控えていてみんなピリピリしている。私も余裕がある様に思っていても実際は相当精神に負担がかかっていたに違いない、と。けれどどれだけ睡眠をとっても、リラックスを試みても日々その黒いもやもやが精度が増していく。生物だと言わんばかりに大きくなっている黒いもやもやを見ないようにしていたのだけど、クラスメイトたちは何も気づきはしない。何故だろう、あんなに近くにいるというのに。いいやつい最近まで私にも見えていなかった。何故どうしてと考えてもどうにもならないことは考えるだけ無駄だと割り切って、私は黒いもやもやを知らない振り見えない振りをした。
知らない振りというのは疲れるけど、中々功を奏した。漂うもやもやは視線を投げると近寄ってくるが、見ないと寄ってこない。あのもやもやが何なのかはわからないが、きっと良いものではないだろう。
少し小走りで教室に向かえば、明かりがついていた。誰かいるのか、と扉を開けて驚いた。この学校において知らない人はきっといないであろう程の有名人、五条君が座っていた。五条君はこのクラスではないし、友人を訪ねて来た事も無いはずだ。扉を開けた音に振り向いた五条君と目が合う。しかも何故か五条君は私の席に座っていて、その手に私が忘れてしまったワークがある。
「はは、凄く嫌そうな顔してんね」
「……そんな事は」
面倒だな、と思った事がそのまま顔に出てしまったのだろう。そんなつもりはなかった。ただちょっと、見なかったことにして宿題は明日少し早く登校してやろうかな、と思ったくらいだ。
有名人である五条君は、どう有名かというとその容姿からくる女子人気が一番ということだ。まるで学園の王子様と崇め、誰もが暗黙の不可侵条約を結んで互いに監視しあっている。馬鹿みたいな話だけど、ファンクラブなんてものが存在しているのだ。五条君に近寄ること以上に、ファンクラブのメンバーに近づく事の方が嫌だ。正直言えば。
バスの時間も迫っているし、早くワークを回収して帰ってしまおう。どうして五条君がこの教室で私の席に座っているのか、しかも私のワークを眺めていたのか気にはなるが藪蛇になってももっと面倒だし、明日からの生活に関係あるかというとそうでもないな、と思えばわざわざ聞くことでもない。
「これさ、今日出た宿題だろ? もうほぼ埋まってるし、宿題真面目にやってんだ。やっぱ偉いね、さん」
パラパラとめくっていたワークを閉じて、五条君はこちらに差し出してくる。「はい、早く帰った方がいいよ」そう言われて受け取る。何だか釈然としないものを感じるが、全てのみ込んだ。黒いもやもやと一緒だ。知らない振りは随分得意になっていた。
じゃあね、と形だけの挨拶をして教室を出ようとしたところで、ドーン、と大きな振動音がした。うそ、地震!? と思って頭を抱えて蹲る。けれどそれ以上の振動も音もしなくなったので顔を上げる。
「ひぃっ」
真っ暗な窓だった。暗くなっていく空が写っていたはずだった。
「あ、やっぱ見えんじゃん」
何故こんな状況で五条君の声が明るくなるのか。嬉しそうに席を立ってこちらに寄ってきた。
窓から覗かれてる。赤い目がぎょろぎょろ動いていて何かを探しているように見える。万が一にも目が合ってはいけないと視線を逸らした。
「おまじない、知ってる? 最近流行ってるらしいんだけど。こっくりさんだかエンジェルさんだか知らないけど、まぁそんな感じの降霊術。素人が安易に手を出しちゃまずいのにそこそこやりやすいからみんなやっちゃうんだよね。大体はさ、何にも来ないんだけど。でもさ、この教室にはさんがいたから。見えるようになったの最近でしょ? 去年とか見えてなかったもんね」
楽しそうに話す五条君の言葉の意味が分からない。この状況にそぐわない。
「さんさ、あいつらにとったら超ごちそうなわけ。これまで五体満足で生きてこられたことが不思議なくらい。でも見えるようになったからなのかわかんないけど、さんに寄ってくるようになった」
一呼吸おいて、「で、さ」と五条君が俯く私を覗き込む。綺麗な顔が近くにあることに戸惑う余裕もない。
「このままだともう後数分後には喰われることになるんだけど」
さっき受け取ったばかりのワークをするりと抜き取られた。。大して力も入っていなかったから抵抗すらしていない。
「助けてやろうか? 交換条件付きだけど」
ちょっとお願い聞いてもらいたいんだよね、と笑った五条君の顔が窓の外の赤い目よりも悍ましいものに見えて腰が引けた。逃げようと後ずさる身体を引き留めるように手を握られる。
「しゅ、宿題見せる、とか……?」
「惜しい! あのさ、試してみたいことがあるんだよね」
「な、なに……?」
窓と窓の空いてすらいないように見える隙間からじわじわと黒いモノがにじむ様にこちらに漏れてきている。五条君はちらっとそちらを見て、でも気にした素振りも無く言葉を続けた。
「最近読んだ漫画でさ、『守るものがあると強くなる』みたいなセリフあって。俺ってさぁ、超強いの。今さんを喰おうとしてる化け物なんて人差し指で楽勝に消せるくらい。めちゃくちゃ強いけど、まだ『最強』には足りない。出来ないことも多いしね。たかが漫画、って言っても馬鹿に出来ないじゃん? だから『守るもの』作ってみようかな、って感じ? まぁ本来は恋人とかそういう人を守る対象にするんだろうけど」
「ど、どういう……?」
「さんって成績いいのに結構察し悪いんだね。だからさ、さんに俺の『守るもの』になってもらおう、ってこと。俺はさんを守ることによって強さを得られるか検証して、さんは今後襲われる化け物から身を守ってもらう代わりに俺に対価を差し出す。どう?」
「……宿題、でいいの?」
「今回はね。俺まだ宿題終わってねぇし。俺らまだ恋人とかって関係性じゃないし、今んとこ同級生なら宿題あたりが妥当じゃん? で、どうする? 正直迷ってる時間は無いと思うけど」
そう言った五条君は自身の背後を指す。もうすぐそこまで黒い靄とその中に光る赤い目が迫っている。吸い込む空気が冷たく重い。息苦しさも感じてきた。逃げたくても手を握られていてそれ以上動けない。
「死にたくないでしょ?」
にっこりと笑った五条君の真後ろで黒い化け物が大きな口を開けた。このままじゃ飲み込まれる――そう思った瞬間何度も首を縦に振っていた。
「じゃあ、決まり」
明るい声で五条君が言った途端、何かが始めたような大きな破裂音がした。それから重苦しかった空気が軽くなって、何だか呼吸がしやすくなったように感じる。目を開けると、心なしか教室内が明るくなったような気がした。
「はい、状況終了。ついでに契約も完了ってことで」
ぱ、っと握られていた手が離される。助かった……らしい。もう絶対放課後の学校に残らないようにしよう。明るいうちに家に帰ろう。もうこんな怖い目に遭いたくなんてない。
「とりあえずケー番とメアド交換しようぜ。それから明日から朝迎えに行くから」
「え? な、何で……」
「守るって言ったじゃん。出来る限り傍に居てもらわないと、守れるもんも守れねぇし」
「で、でも」
「さっきのヤツは祓ったけど、があいつらにとって超美味しそうなごちそうである事には変わりないわけ。安心してよ、契約したからにはの事超大事な『守る人』って扱いするし。その過程でちょーっと周りに何某かの勘違いされることになるかもしんないけど、命には代えられないもんな」
俺って超優しい、と笑っている五条君に対して拳がぶるぶる震えるけど、実際に命を助けてもらった手前何も言い返せない。
明日から晒されるであろう好機と嫉妬の視線の事を考えると、絶対にマズイ約束をしたと今冷静な頭で理解し始めている。けれど同時に、五条君の言った「契約」という言葉に、口約束でしかないのに確かに縛られているように感じるのだ。さっきの化け物を倒した不思議な力が関係しているのだろう。
さっさと帰ろうぜ、と笑って手を差し出してくる五条君を見上げる。確かに優しいといえる行為だ。でも、何だか釈然としない。
こんな善意があってたまるものか。