「生きる意味に僕ってどう?」









 玄関で靴を脱ぎ、廊下を抜けてリビングのドアを開ける。照明のスイッチを付けながら歩き、腕に下げていたエコバッグをカウンターキッチンの所定の位置に置いた後、とりあえずまた廊下に出て客室のドアを開ける。明かりは付けず暗がりの中で床にバッグを置き、腕時計を外してベッドサイドのテーブルに置き、そのついでに現在時刻をチェックする。先にスーツから着替えようかと一瞬だけ検討して却下し、また廊下を通ってキッチンに戻る。石鹸で手を洗い、冷蔵庫横に掛けてあるエプロンをつけながら夕飯の献立をイメージする。今日色んな人に晩ご飯の献立を聞いた事を反芻しながら米櫃を出す。大抵の場合一番時間がかかるのが炊飯なので、米を研いで炊飯器のスイッチを入れるところまでは献立に関わらず優先で行う。だいたいはその間におかずを作る手順がまとまってくるので、手待ち時間はゼロだ。
つい最近見た、炊飯器との炊きあがるまでにおかずを作り終われるか勝負を真似するのがちょっと楽しくなってきている。あちらは早炊きだが、こちらは通常なので時間に大分余裕があるけれど。それでも負けることがある。勝っても負けても賞品もペナルティもないが、少しでも楽しもうと思った結果の一人遊びにすぎない。
炊飯器のスイッチを入れ、それからふと思い出したことがあってリビングを横切る。レースのカーテンを開けると、思った通りベランダに洗濯物が揺れていた。窓を開けて手を伸ばし、乾いているのを確認する。もうすぐ家主が帰ってくるはずだ。いつも責めるほどではない微妙な時間だけど遅刻する男は、帰宅時間だけは遅れないし、何なら早く帰ってくることもざらにある。つまり、夕飯の準備を急がなくてはならないから、取り込むのは後回しだ。帰ってきた家主にやらせよう。カーテンは開けたままにしてキッチンに戻る。少し時間をロスしてしまった。この炊飯器との勝負にロスタイム制度は無い。エコバッグから食材を出し、まな板と包丁を出して軽く洗い、ついでにちょっとネクタイを緩める。かっこよくネクタイを結びたいから、と学生時代一生懸命練習した。その出来栄えに「いつでも俺のネクタイ締めれるな」と機嫌よく言っていた家主は、普段滅多にネクタイをしない。後輩にしっかりスーツ姿で仕事をこなしている子がいるが、結んであげようか、と言ったら非常に迷惑そうな顔で「結構です」と断られてしまった。面倒に思われているのは私ではなく、ここの家主の方であると信じたい。
悟の家に迎え入れられ家事をするようになってからもう八年経つ。献立のレパートリーは学生の頃からあまり増えていないが、基本的は悟の食欲を満たせるだけでいいので、ご飯の進むものと食後のデザートを用意しておけばそれで事足りる。最初は真面目に作っていたが、スーパーのお惣菜やコンビニスイーツでも一切文句を言わないので、考えてみればその志の低さこそがレパートリーの増えない原因であると言えるのではないだろうか。来週あたり、新しい料理に挑戦してみようかな。料理をすることは嫌いじゃない。
一尾一尾海老の殻を剥いて背綿を爪楊枝で取り除く、という終わりの見えない単純作業を続けていると、リビングのドア越しに玄関のドアが開く音がかすかに聞こえた。いつも静かに歩くのに、今日は随分と苛立っているのかどすどすという足音が続く。強烈な風圧を巻き起こしながらドアが開くと、いつもの黒ずくめ目隠しスタイルの悟が現れた。家主のお帰りに手を止めて「おかえり」と言っても唸るような返事だけして、悟は長い脚で大股に歩いてリビングの気足の長いラグまで到達すると、座り心地抜群すぎるソファにそのままうつ伏せに倒れ込んだ。うつ伏せのままこちらに顔をぐり、っと向けてただいまの代わりに「疲れた」と一言言った。悟は私がなりたくてもなれなかった呪術師である。それも特級呪術師だ。片手の数もいないくらい凄い呪術師の一人。現呪術師界で最強の名を欲しいままにしている。そんな悟がこんなに疲れているのは、仕事の量が尋常じゃないということ以上に、上層部による嫌がらせその他のストレスが原因だ。

「そんなとこで寝てても疲れ取れないよ。お風呂入ってきたら」

 言っても悟は動かない。というか今自分で言ってしまったけど、お風呂の用意していない。まぁここはいいマンションなのでボタン一つでお湯張りが完了されるのだけど。洗濯物も取り込んで畳んでもらおうと思ってたんだけど、あまりにも疲れているように見えるし、言わないでおこうかなぁ。
 目隠しを取った悟は私の手元を見て簡潔に言う。「玉ねぎと卵の味噌汁にひじきと枝豆のサラダ、それから昨日の残りのカボチャの煮つけ。そして海老フライ」

 夕飯の献立を百パーセント確実に言い当てるのが悟の特技の一つだ。いつの間にか身に付けていた。「正解。出来立て食べたかったら早くお風呂入ってきなよ」ただしお湯張りボタンを押すところから始めなくてはならないが。
 悟は物憂げに目を伏せて数秒静止した後、突然がばりと起き上がって足早に寝室へ消えていった。ばさばさとクローゼットの中身を散らばしている音が聞こえ、あっという間に洗面所に消えた。寝室に散らばっているだろう衣類を片付けるのは恐らく私だが、まぁいいかと思って開けっ放しのリビングのドアを閉めた。
 多分お湯を張らないでシャワーだけで済ませてくるだろう。後で私も入るからお湯張りボタン押しといてくれないかなぁ、とちょっとだけ期待しながら味噌汁の味をみて、続けて油を温め始める。炊飯器によれば残り時間は二十分を切っていた。味にそこまでこだわっているわけではないが、悟は夕飯が出来あがる時間ちょうどにお風呂から出てくるという特技も持っているので、手を抜いて早く仕上がるとバレるのだ。手抜きで文句を言われたことは無いが。
 八年前、高専を退学し実家に引き籠っていた私を卒業したその足で悟が迎えに来た。「遅くなってごめん。迎えに来たよ」随分と雰囲気が変わった元同級生に紙を押し付けられる。一体何が遅くなったのか、とかマジで本気で迎えにきやがったのか、とか呆然としながら押し付けられた紙を見ると、『婚姻届』と書いてある。ピンクのラインが引かれたこれは、確か結婚情報雑誌の付録バージョンだったはずだ。

「家政婦、って話じゃなかった?」
「僕、家政婦なんて一言も言ってないよ。卒業したら迎えに行くってことと、僕の家で家事やってほしいな、って言っただけ」
「報酬がある家事代行ってつまり家政婦じゃん?」
「でも家政婦が欲しいわけじゃないから。お前が僕の手の届くところにいるっていうのが最重要で、別に家事だって本当はしなくてもいい。でもあの時はそうでも言わないと納得しないかな、って思ってさ」

 我が家に伝わる相伝の術式というものがあった。それなりに長く続く呪術師の家系でありながら、衰退の一途を辿っていたのは、この術式のせいであると言っても過言ではなかった。相伝の術式を継いだ者は須らく短命であった。これは、強すぎる術式に体が耐えられず命を削る羽目になるからだ。
 呪霊を祓わなければ、術式を使わなければ長く生きられるはずなのに相伝の術式を継いだ誰もがその道を歩まなかった。それは呪術師として生きていけなければそもそも生きている意味もない、という考え方が根付いていたからだ。例え短命だとしても、誰かのために命を使えるならばそれは立派に、生きている価値があったということなのだ。
 これからもっとこの術式を持ってか弱い非術師達を助けていこう、という決意を胸に私は呪術高専に入学して、入学初日に同級生にガチ切れされた挙句、そいつの手によって強制的に退学させられそうになった。
 その同級生こそ、この家の家主、五条悟である。